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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.10] ■■■
[99] 枕詞「敷島の」考
【敷島の】は大和/倭に掛かる枕詞。
有名だが、「古事記」にそのような用例は無く、用られているのはもっぱら「万葉集」で、しかも限定的。

枕詞で議論する能力も無い、ド素人からすると、ソリャ当たり前と思ってしまうが、そうした見方は多分希。

別に、ユニーク、言葉を換えれば異端、を目指して書いているのではなく、極く自然に考えればこういう見方ができるというに過ぎないが、それがえらく難しい社会なのである。
それを自覚しない人だらけということ。

・・・「古事記」を読み続けていて、それを強く感じさせられたので、ここらで書いておくか、となったのである。

またまたクドイが、「記紀」ごちゃまぜは駄目である。
センスの問題ではあるが、例えば、現代文芸評論家に、大和の枕詞に対する両者姿勢の違いを眺めてもらえば、その答は"対立的”ではないかと思う。
そんな勝手なことを言うのは、「記紀」思想を叩き込まれていることがわかったのが枕詞譚だったから。

何故に、葦でトンボが日本国の象徴的生物で、称号がヤマトなのか、どうも合点がいかなかったのだが、「記紀」で読む限りわかる訳がないということ。、天皇が国見で大和はトンボのようだ、と仰せになった、という事績を頭に入れて考えていることに気付いたからでもある。
なんと「古事記」の記載はは全く違うのだ。
なるほどそういうことですか、太安万侶先生となったのである。

ご存じのように大和の枕詞には3種類あり、さらに疑似が2つあるようだが、ここでは、先ず、「敷島の」から取り上げる。「古事記」の歌謡には使われていない。多分、「日本書紀」にも無いと思う。
にもかかわらずコレから始めるのは、文芸的になかなかに親しみの持てる漢字表記と言うこともあるが、「言霊」観念を意識しておきたいが故。この語彙も「古事記」には使われていない。

と言うことで、「敷島の」が使われている歌、全7首を並べておこう。もちろん、この漢字を用いた訳ではない。
参考に追加している句は、「言霊」関連であるが、そのなかに他の、大和の枕詞「蜻蛉島」と「虚見通」が登場している。

 訳は「式嶋」や飾り言葉の「志貴嶋」でもよかったと思うが、学者的であり、すべて無味乾燥の「磯城島」。そのお蔭で、語源が奈良盆地のローカルな地にあることが明示的になる。

太安万侶的発想なら、そのような局所的な地名を全土に適用する理由はナンナンダとなろう。
国名はあくまでも、大八洲国であって、古い言葉なら豊葦原之千秋長五百秋之水穂国となる。「磯城島」をその代替として使う根拠などあろう筈がなかろう。
象徴は、中核の嶋の核としての表現"秋津"以外に考えられまい。
●[礒城嶋]… [「萬葉集」巻九#1787]
《天平元年(729年)己巳冬十二月歌一首 笠金村歌集》
うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 敷島の "大和の国"の "石上" "布留"の里に 紐解かず 丸寝をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
●[式嶋]…[「萬葉集」巻十三#3248]
《相聞》
磯城島の 大和の国に 人さは[多]に 満ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を
●[式嶋]…[「萬葉集」巻十三#3249]
《反歌》
磯城島の 大和の国に 人ふたりありとし思はば 何か嘆かむ
 〇続く長歌[#3250]:(蜻蛉島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国・・・)
●[志貴嶋]…[「萬葉集」巻十三#3254]
《反歌 柿本人麻呂歌集》
磯城島の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ
 〇前の長歌[#3253]:(葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国・・・)
●[礒城嶋]…[「萬葉集」巻十三#3326]
《皇子挽歌》
礒城島の 大和の国にいかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へまつりて 殿隠り 隠りいませば 朝には 召して使ひ 夕には 召して使ひ 使はしし 舎人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば 剣大刀 磨ぎし心を 天雲に 思ひはぶらし 臥いまろび ひづち哭けども 飽き足らぬかも
●[之奇嶋]大和省略形…[「萬葉集」巻十九#4280]
《廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首》
立ち別れ 君が往(いま)さば 磯城島の人は我じく 斎ひて待たむ
●[之奇志麻]…[「萬葉集」巻二十#4466]
《喩族歌一首并短歌 大伴家持》
磯城島の 大和の国に 明らけき名に負ふ伴の男 心つとめよ
【参考】
 [「萬葉集」巻十八#4124]
  《賀雨落歌一首 天平感宝1年6月4日 作者:大伴家持》
  我が欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ
 [「萬葉集」巻五#894]
  《好去好来歌一首[反歌二首]
   天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室》

  神代より 言ひ伝て来らく そらみつ[虚見通] 大和の国は
  皇神の 厳しき国
  
言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり・・・

この枕詞の由来は、[29]天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇の宮地名称"師木島大宮"以外に考えられない。その場所は考古学的に解明されてはいない。📖師木島大宮
しかし、シキは、古代から、御諸山/三輪山辺りの枢要な地として、よく知られていた名称である。 
 [10]御真木入日子印恵命/崇神天皇の宮地📖師木水垣宮
 [11]伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇の宮地📖磯城之玉垣宮

それに、そもそも、師木の地の土着勢力あればこその皇統成立であるし。ただ、宮地は盆地南西部の葛城だが。・・・
[2]神沼河耳命/綏靖天皇📖葛城高岡宮
└┬河俣毘売(師木県主の祖)
[3]師木津日子玉手見命/安寧天皇📖片塩浮穴宮
└┬阿久斗比売(河俣毘売兄 師木県主 波延の娘)
┼┼├┬┐
┼┼常根津日子伊呂泥命
┼┼┼[4]大倭日子鉏友命/懿徳天皇📖軽之境岡宮
┼┼┼│〇師木津日子
┼┼┼└┬天皇賦登麻和訶比売命/飯日比売命
┼┼┼┼┼┼┼(師木県主の先祖)
┼┼┼┼├┐
┼┼┼┼[5]御真津日子訶恵志泥命/孝昭天皇📖葛城掖上宮
┼┼┼┼┼多芸志比古命

尚、「風土記」での天皇名称としての地名の場合は、漢字では"志貴嶋"表記@播磨国, 出雲国, 豊後国だが、上記の訓訳語でもわかる通り、"磯城"とされることが多い。

漢字表記はお好み文字を当てているだけの場合が多いので、なんとも言い難いところがあるが、「古事記」は"師木"表記に拘っているように見えるので、それなりの意味がありそうだ。

そもそも、大陸と違って、本邦の宮には城壁が無く、結界的な垣で十分と考えていたようだ。そんな状況で、島とか、磯とか、水垣という漢字を用いるのだから、河や池のほとりの地ということを暗示していると言ってよいのでは。
なかでも、島に、大和らしさが出るということだろうから、現代用語の領地的なシマという意味ではなく、川の中州的地に宮があったと考えるべきかも。
奈良盆地は沖積がそれほど進んでなかったと考えれば、湖や池が多いなかで、陸地化した新しい場所に宮を造営したため、その美しさが映えたということで、その印象が後々まで残ったと考えることもできそうだし。(葛城は、当時からいえば若干の高台にあたり、南西から湿地の奈良盆地を見下ろす場所。師木は盆地東の山裾に位置し、河川だらけの湿地が開けた所ということになろう。)

太安万侶と稗田阿礼のコンビは、そういうイメージを与えるように文字を選んだようだ。実に、素晴らしい仕事をしてくれたと言えそう。

[10]代の宮ではなく、[29]代の宮が、大和の代表になるのは、"師木島"という宮地名称を聞いただけで誰もがそのイメージを思い浮かべることができ、それこそが大和の原風景と感じるということ。

そこは、人々が行き交う河川交通の要所であり、目印の高木があり、大和の人々が崇拝している山々を望める地でもあるということ。

もともと、葦の生える地を原初的な風景としているから、中洲は人々の琴線に触れる風景でもある。そこらは、現代人にはえらくわかりにくいが、葦原化している中洲は防衛に向いており(環濠集落的)、倭人はそんな地を愛していたに違いない訳で、"師木島"という言葉が心の奥底に潜む感情を呼び覚ましてくれたのではなかろうか。

しかしながら、その本質は、磯城を本貫地とする勢力が寿ぐための用語ということになろう。

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