→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.7] ■■■
[249] 飛鳥清原大宮天皇詔漢文読解
序文の飛鳥清原大宮天皇讃漢詩読解を行ったが(📖【1】 📖【2】 📖【3】 📖【4】 📖【附】)、肝心な詔部分前で終えてしまったので、取り上げておこう。
📔"帝紀 及 本辭"の部分だが、辞は書では無く口誦伝承との見方まであり、説は色々あるようだ。当たり前だと思うが、議論してわかるようなものではないから、たいして触れてはこなかった。📖帝紀本辞の歴史は古そう 📖稗田阿禮に不可思議な点なし
天皇の詔を漢語的に翻訳したのか、公的用語を発する際は漢詩的表現を駆使する慣習があったのかは定かではないが、支配層は漢語を駆使していて当然だから、公開する際はこのようになるのであろう。
と言うか、このような表現能力ではピカ一ということで太安万侶は天皇側近として重用されたと見るべきだろう。その辺りを、それとなく示してくれたとも言えよう。
於是 天皇詔之:
 「朕聞
  諸家之所賷"
帝紀 及 本辭"
   既違正實
   多加虛僞
   當今之時
   不改其失
   未經幾年
   其旨欲滅
  斯乃
   邦家之經緯
   王化之鴻基 焉
  故惟
   撰錄
帝紀
   討覈
舊辭
   削僞定實
   欲流後葉」

<註>
   《賷》
    【音】セイ サイ シ
    【訓】もたら-す (≒持ってくる)
   《邦家》…國家(爾不我畜,復我邦家。)
   《經緯》…治理(夫晉國將守唐叔之所受法度,以經緯其民。)
   《欲滅》…仏典用法(後末世法欲滅)
   《王化》…天子的コ化(既不能宣揚王化)
   《鴻基》…偉大的基業(我世祖光武皇帝誕資聖武,恢復鴻基。)
   《覈》…検験(其以温故知新,研覈是非。)
   《後葉》…後世(創制垂基,思隆後葉。)


素人は、論文作成に興味など無いから、これ以上議論したところで意味は無い訳だが、朝廷の一大プロジェクトたる国史舍人親王[編]:「日本書紀」720年編纂の詔と似た風合いの言辞にしているところが実に面白い。
誰が考えても、それなら、詔勅で、中華帝国のように王朝の公的な歴史書を作らせればよいだけのことでは、となろう。天子的地位を確立しているなら、当たり前。そこで、一大プロジェクト発足となる。・・・
十年(681年)・・・三月・・・丙戌。
天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首。
記定帝妃及上古諸事
大嶋。子首親執筆以録焉。
   
[卷廿八 天武天皇下/天渟中原瀛真人天皇/天武天皇]

もちろん、中級官僚である太安万侶もプロジェクトメンバーとして参加したであろう。それなら、「古事記」執筆する必要はどこにあるのだ、となろう。

と言うことで、その理由がはっきり書かれている訳だ。
"天皇の側近である、天才的語り部の稗田阿禮の存在。"
 即 勅語阿禮 令
  誦習
帝皇日繼 及 先代舊辭
 然 運移世異 未行其事 矣


ただ、この理由は、自明なものと、背景から考えて想定されるものの、2つが重層化している。
「古事記」の醍醐味はもちろん前者に起因する。と言うか、太安万侶は倭語を"表音+表意"文字で表記するという、それこそコペルニクス的転回と言って過言ではないイノベーションを倦み出したからだ。その辺りは、控えめな表現ではあるものの、解題的段で語っている訳だから、誰でも気付く筈。但し、社会的にはこれを"イノベーション"とは評価しないことになっていそう。・・・ここらの姿勢は、同じ知識人であっても、倭語訳を嫌い、梵語読みと、漢語翻訳文の呉音読みに徹していたようだから。

見逃しがちな、もう一つの理由の方は、国史の情報を知るとなんとなくわかってくる。

残存している書として、「日本書紀」が今のところ一番古いというに過ぎず、推古天皇代に「国記」がすでに編纂されていたのである。・・・廿八年・・・是歳。
皇太子。嶋大臣共議之
録天皇記及國記
臣連伴造國造百八十部并公民等本記。
   
[「日本書紀」卷廿二 豊御食炊屋姫天皇/推古天皇]
しかし、その書は乙巳の変で焼失してしまうが、「国記」は救出されたとも。しかし、その書はその後どうなったかについては、なんの情報も無い。
四年・・・六月・・・蘇我臣蝦夷等臨誅。悉燒天皇記。國記。珍寶。
船史惠尺 即
疾取所燒國記而奉献中大兄。
  
[卷廿四 天豐財重日足姫天皇/皇極天皇]

この書はおそらく、最終記載部分はは推古天皇の一部であろう。「古事記」はその範囲に抑えたということになる。つまり、もしかすると太安万侶はこの「國記」を利用したのではないかとの"思わせぶり"を感じさせるようにできている。と言うのは、恣意的に仏教関係の記述と任那と中華帝国との外交関係についての記述を避けているからだ。蘇我宗家が手を入れた「國記」は、そこらの情報は豊富であり、しかも政治的潤色が大きいと誰でもが考える筈で。
(「酉陽雑俎」を読むとインターナショナル志向のピカ一知識人のセンスがよくわかる。サロンの人々はいかにも中華帝国で仏教は排除されていくと読んでいたようだし。従って、太安万侶もそれに気付いていた筈である。神祇 v.s. 仏教の対立とは、朝廷内権力闘争に過ぎないと見ていたとしか思えない書きっぷりなのは、そこらにも起因していよう。インターナショナルなセンスを培うということは、仏僧とのサロン的交流無しには有りえないからだ。つまり、宗教対立必至なのは、仏教国百済が倭国との完璧な軍事同盟化で半島での敗退を避けようとしていただけと早くから見抜いていたから。中華帝国の文化導入を、百済というバッファーを介して導入することで問題を避けてきたが、それが難しくなった訳だ。百済切り捨ては直接的脅威に晒される上に国内反乱を招きかねない。と言って、一蓮托生路線は無理があるのもわかりきっていた事。・・・国史編纂には、滅亡百済の亡命王家も係わっているため、その辺りを勘案されて仕上がるのは当たり前。国史編纂には、滅亡百済の亡命王家も係わっているため、その辺りを勘案されて仕上ががるのは当然である。その内容とは意趣が異なる執筆を一介の中流官僚ができる訳がない。)

それはともかく、「古事記」の皇統譜とは、皇位継承闘争結果を現王朝の視点で整理したものであると書いているに過ぎない訳で、それ以上の正統性あるものなど無いのだが、後世、焚書でそれが覆されることもあるというのが、現実認識だったと思われる。
どうのように、皇統譜を伝えるかは思案のしどころとなろう。一つは口誦伝承を続けるという方法だろう。天武天皇は少なくとも、それを考えていた可能性が高かろう。一方、太安万侶は表に出ない書として、知識階層の一部で保管し続ける道を探ったのだろう。(唐の知識人 段成式が「酉陽雑俎」を書いたのと同じセンスである。)

そして、712年にその思いは結実したことになる。
天武天皇の"欲流後葉"という想いを入れ、太安万侶自身の歴史観で、叙事詩を皇統譜によって、倭の社会を描き切った作品が仕上がったことになろう。大衆相手の書ではなく、一部の知識人だけを読者とした書であり、その存在ができる限り知られないような扱いがなされた筈である。

その思惑通り、国史編纂の努力は続いたが、「古事記」がそこに絡むことは一切なかった。・・・
五年(714年)・・・辛亥。
詔十八氏<大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。膳部。春日。上毛野。大伴。紀伊。平群。羽田。阿倍。佐伯。釆女。穂積。阿曇。>上進其祖等
墓記[卷第卅 高天原廣野姫天皇/持統天皇]

(七年)(714年)二月・・・
戊戌。詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令
撰國史
[「續日本紀」卷六 元明天皇/日本根子天津御代豐國成姫天皇]

四年(720年)・・・五月・・・癸酉。・・・
一品舍人親王奉勅。
修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。
[「續日本紀」卷八 元正天皇・聖武天皇]

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME