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2010年1月4日
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【古都散策方法 京都-その1】
狸谷山から京の街を眺める

奈良散策で何を期待していたか考えてみた。
 師走に、奈良散策の方法論を書いていて、ふと気になったことがあった。
   → 「雑感: 奈良観光」 [1], [2], [3], [4], [5],  [2009.12.7〜11]

 ひとつは、僧侶が忙しいのは年末ではなくなったなあとの感慨。まあ、これはどうでもよいのだが。
 肝心なのは、もうひとつの方。奈良に対する自分の期待が変わってきたこと。

 一般に奈良と言えば、鹿と大仏イメージだと思うが、小生の頭のなかは別物。どうしても大学受験生必読本(小生の時代という意味で)が浮かんでくるのである。今は読む人もいないようだが。
   ・和辻哲郎: 「古寺巡礼」(1919年)
   ・亀井勝一郎: 「大和古寺風物誌」(1943年)
 高年齢層なら誰でも知る本だと思うが、未だに、どちらもサイトで公開されていないようだ。(堀辰雄の“浄瑠璃寺の春”は読めるが。)ほとんど読んだことのない著者の本がずらりと揃っているなかで、この状態。このいびつさこそが現代社会の病根かもと思ったりする。ともかく、残念なことである。

 しかし、奈良を歩くと、これらの本の影響がたいして残っていないことに気付いた。どんな感覚かといえば、以下の3点でまとめることができるかな。
    ・入江泰吉(1905〜1992年)写真集の奈良の風景と仏像のお顔
    ・薬師寺の高田好胤(1924〜1998年)管主の法話
    ・正岡子規が1895年に詠んだ「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の情感
 ノスタルジーという気もするが、それが心の奈良なのかも。

京都散策では何を期待することになるのか。
 さて、そうなると、京都ではとなる。
 “鹿と大仏”にあたるのは、以下の2つかな。
    ・列車が京都駅に近づくと見えてくる“東寺の五重塔” (今は難しい。)
    ・なんとも独特な“京都弁” (これも、場所による。)

 小生の場合、最近は京都に興味が薄れているからそれほど行く気はないが、以前は、毎年最低1回の小旅行が習い性になっていた。それは何故かと考えると、奈良とは全く違う心情を抱いていることがわかる。
 それは、実に個人的な体験に基づいている。大学生時代の話。
 当時は、京都大学をガラパゴスと呼ぶ人が結構いた。座敷で思考する化学者がいるは、就職斡旋どころか、そんなことは自分で勝手にせいといった姿勢など、違う点が矢鱈に強調されていたのである。しかも、京都では学生さんが大事にされるなど、独特の雰囲気があると言われていた。
 しかも、町はお寺だらけ。同じ日本でありながら、どうも、相当違う地域との思い込みがあった。

 そんな状況で、友人の下宿に泊めて頂き、自転車での京都散策をご指南頂いたのである。そして、それなりの京都観ができたという訳。
 何が印象的だったかといえば、以下の3点。
    ・狸谷山から一望する山に囲まれた、お寺だらけの街。
    ・庶民相手の商店街の活気。
    ・落ち着いて思索にふけることができそうな「一乗寺」辺りの雰囲気。

 そう、これこそが京都だと思ったのである。
 観光都市なので、歴史をウリにしているのは当然だが、遺産を見せるのではなく、昔の精神を現在まで引き継いでいる姿勢を見せつけられた感じがしたのである。しかも、それが雑多。言ってみれば、ガラパゴス的古都である。
 取捨選択されながら、昔からの様々なものがそのまま生き残っており、それが雑炊状況で同居しているということ。
 よく考えると、これこそ日本そのものかも。

先ずは、京都盆地を眺めよう。
 と言うことで、小生がお勧めする京都散策の一番最初は、京都の街並みを俯瞰的に眺めること。
 簡単にできる方法としては3つある。
    ・京都タワー(高さ100m)から眺める。
    ・大文字焼きの山に登り眺める。
      (例えば、銀閣寺横からの道。)
    ・狸谷山から眺める。

 体験論からではなく、京都の風情を楽しむならこれは狸山しかあるまい。と言うのは、眺望そのものを楽しもうというのではなく、そこに到達するまでの“散策”と、“山”の意味を考えてのこと。

 実は、この“山”が不思議なもの。東山三十六峰の一つらしいが、そこは修験道の素人向け箱庭のようなつくりになっているのである。昔は鄙びていたが、次第に整備されてしまいその雰囲気は薄れているが、まごうかたなき山岳宗教そのもの。東京で言えば、高尾山や御岳山を井の頭線の駅から住宅地を通ってすぐに登るようなもの。と言っても、おそらく、ハイキングを楽しむ場所ではない。ここは、京都の街を守る信仰に支えられた山なのである。
 その信仰が連綿と息付いているのだと思う。

“山”信仰が流れているのを感ぜずにはいられない。
 ただ、朝廷が支援した、都の鬼門(東北方面)を護る役割の正式な宗教施設は狸谷山にはない。言うまでもなく、それは、最澄が開いた比叡山延暦寺。
 もちろん、洛北にも施設がある。一乗寺より少し北にある赤山禅院。
 ここは、延暦寺の別院と呼ばれている。しかし、行ってみると随分違った雰囲気を味わうことになる。そもそも、修学院駅から行けば鳥居を通ることになり、参拝するには数珠をくぐるしかない。信仰なきものを寄せ付けないかの如き凄みさえ感じさせる。

 そう言うと、お気付きの方もおられよう。ここは、比叡山千日回峰行に含まれる「赤山苦行」の施設なのだ。無動寺谷明王堂から、四明ヶ獄[比叡山]を回り、険しい雲母坂から赤山禅院に入り、ご本尊(焔摩天に従う眷属の泰山府君)を拝んでから、琵琶湖側坂本の日吉大社へという大変な道程。その苦行は“大行満大阿闍梨”を目指す修業であるが、都を護る行為でもある。それは今も絶えることなく続いているのだ。
 “山”とは、最澄の「山川草木悉有仏性」の場であり、街を護ってくれる聖域でもあるということ。

“狸”とは何だろうか。
〜京都の神社の動物〜
-神社- -totem-
賀茂別雷神社
(上賀茂神社)
八咫烏(鴨?)
松尾大社
貴船神社
今宮神社
吉田神社 鹿
護王神社
伏見稲荷大社
北野天満宮
京都諏訪神社
岡崎神社
豊国神社 (猿?)
大豊神社 大国社
大豊神社 日吉社
大豊神社 愛宕社


熊野若王子神社
+熊野神社
+新(今)熊野神社
八咫烏
石清水八幡宮
狸谷山不動院
赤山禅院 犬/猿
 正確なことは知らないが、狸谷山不動院は天台宗ではない。お堂は清水寺の建て方だから独立した宗派かも知れぬが、時代から見て真言系か。
 などという宗派分類より、よく知られているのは、剣豪宮本武蔵の修業の場であったということ。それもあってか、関西一円に信者を抱えているようだ。大勢の寄進者の名前を見ればその広がりがよくわかる。
 赤山禅院にしても、良く知られるのは五十日の発祥地という方かも知れない。融通のご利益の地でもある訳だ。
 こんなところが、現代まで信仰が続いている京都らしいところ。

 その感覚を強めるのが、「狸」である。呑み屋の入り口に飾られている瀬戸物の狸像はよく見かけるが、ここは宗教施設。しかも、新興宗教とは思えない。
 まさに、都の人々のエネルギーの象徴ではないか。
 “タヌキ”という言葉から来ているとされているものの、東山南端の稲荷山にある伏見稲荷に対抗しているように感じる。それも又、京都らしさ。外部の者にはよくわからない、複雑な心理と、様々な信仰がごちゃ混ぜで生き続けているのだ。表をご覧になればわかる通り、まさにトーテム勢揃いの感あり。

 これらを、日本版トーテムと呼んでよいものかは素人なのでよくわからないが、崇拝対象としての動物であるのは間違いなかろう。なんらかのご加護が得られるとの信仰がある訳だ。それが、これほどの多種多様のまま、現代まで保たれているのである。奇跡的と言ってよいのでは。
 これこそ京都ならでは。

平安京遷都を山から想うのが散策の原点。
 一寸寄り道し過ぎたが、要するに、京都には今も様々な信仰が息づいているということを想い起こして欲しいということ。その信仰の源流は遷都の時代に遡るものが少なくない。従って、由来の明確化は容易なことではない。だが、想像がつかない訳でもない。

 その想像行為こそが、山から街を眺める楽しさである。いわば、794年の世界観に浸ってみるようなもの。

 すでに、薬師寺本尊の台座に四神が示されているように、平安京遷都もその信仰が濃厚と言われている。
・青龍(東)の「流水」は鴨川・東山渓流。
  比叡山登山道は音羽川。
・白虎(西)の「大道」は山陰道/淀川。
  シルクロードに繋がる方向。
・朱雀(南)の「湖沼」は巨椋池。
  川の合流点は昔は大きな池。
・玄武(北)の「丘陵」は北山・丹波高原。
  実際は、手前の丘“船岡山”らしい。
 なかなか面白い。

 しかし、この地形を見て、一番感嘆させられるのは、東山三十六峰(比叡山から稲荷山まで)の“山信仰”ではないか。
 それこそ、北から南まで連続的に宗教施設が建ち並ぶ。壮観そのもの。思わず、石上神宮から大神神社(三輪山)へと続く祭祀施設跡だらけの山之辺の道を想起してしまうではないか。(それは平城京の東山である御蓋山信仰へと繋がった訳だ。)

〜加茂氏の代表的祭祀場所〜
-場所- -山- -神社-
加茂川東岸 神山/衣笠山 上賀茂神社
賀茂川/高野川合流点 糺森+御陰山 下鴨神社+御陰神社
 だが、東山の素晴らしさが遷都の決め手ではなかったようである。
 上記の神社リストのトップに示した上加茂神社に祀られる賀茂別雷の氏子が、誘致したと考えるのが自然である。
 この、おそらく鴨をトーテムとする一族は、もともとは奈良の葛城川が根城だったと言われており(御所市鴨神の高鴨神社)、都が平安京に移るずっと以前に加茂川付近に移転して居を構えていたということらしい。
 この一族が平安京遷都を推奨したのだろうが、この神社のご神体である「神山」の存在が一番の訴求点と言えそうだ。藤原京における耳成山から、その北方の、平城京の北の丘陵に移り、又、その北方の神山(あるいは、低い丘の船岡山)という流れを作り出したと思える。
 しかも、下鴨神社は「糺森」を有しており、強烈な森崇拝の伝統を引き継いでいる点からみて、古くから倭の祭祀に係わってきた氏族だったのは間違いないところだろう。
[尚、加茂氏族が八咫烏と関係しているとは思えないが、平安京遷都の功か、天皇家の祭祀を司る一族ということで、鴨と烏の同一視に踏み切ったということかも知れぬ。]
 ともあれ、こんな背景があるからこその、京都あげての“葵祭”が挙行されるということ。
 流石。

 もっとも、この地をもっと早く開発していたのは、どうも亀がトーテムの秦氏のようだ。
 その根拠地は嵐山・松尾山の松尾大社(由緒から見て京都最古らしい.)辺りと、桂川(旧名: 葛野川)対岸の、広隆寺と大酒神社で知られる太秦地区である。ここらも山信仰は濃厚。“蚕の社”と呼ばれる太秦の木島坐天照御魂神社には湧水池には三柱鳥居があるそうだが、それは“松尾山,稲荷山,双ヶ丘,愛宕山,四明ヶ獄(比叡)”といった山々の恵みという意味ではないか。
 良く知られるように、桂川を下った東山連峰南端の稲荷山の伏見稲荷大社も、この氏族の神社と言われている。
 といった知識をもとに、平安京全体を俯瞰的に眺めれば当時の状況がなんとなく想像がつく。京都盆地は水だらけ。桂川と加茂川-鴨川の間は湿地だらけで、その合流点は沼状態だったと考えてよさそうである。このような地を都にするには、相当大掛かりな土木工事が必要だったし、建築も大変だったに違いない。それを支えたのは、おそらく、こちらの氏族。丹波も勢力圏だろうから、桂川を利用した大量の木材供給能力を有しているし、嵐山辺りを開発してきた高度な治水ノウハウを持っているからだ。
 そして、鴨-亀同盟で遷都を支援したということだろう。

 このようにして、平安京の出発点を考えながら、自然崇拝の原点を想い、山の上から京都の街を眺めていると、京の街のどこを散策しようか自ずと答えが頭に浮かんでくるのではないか。それこそが、京の情緒を味わうことにつながる。
 その場合、鉄則がある。散策を通じて、時間を無駄に使う喜びを味わうこと。これこそ京都の醍醐味そのもの。

【お勧めコース】
(1) 京阪電鉄出町柳駅の北口から叡山電鉄に乗り換えて、一乗寺駅(無人駅)下車。
   車やバスを利用せず、駅から山に向かって歩くことをお勧めしたい。
    → 「一乗寺駅」 [おでかけえーでん 沿線マップ]
(2) 駅前から東に歩き、白川通りを越えると、“一乗寺 下り松”。
(3) さらに進むと、石川丈山ゆかりの“詩仙堂”。ここは是非立ち寄りたい。
   引退後の精神的に満ち足りた生活の見本。(若者には毒だから止めた方がよい。)
   庵とお庭が、こじんまりしている点が心に響くだけにすぎないのだが。
   (閉鎖的で狭いことを“美の凝縮”として尊ぶのは日本人特有の心理である。)
   キャッチコピーの堂名で、若い女性の拝観者が多いから、おじさん好みかも。
   それが不快な人は、代わりに、金福寺の“芭蕉庵”をお勧めする。
(4) 詩仙堂の先にいけば、“狸谷山不動院”。さらに山(奥の院)へ。
(5) 帰りは茶家(和菓子処一乗寺中谷)で一休みも一興。
(6) 駅に戻らないコースも考慮の価値がある。
(6-A) 白川街道からバスで他地域に出る。
(6-B) 北へと歩き、赤山禅院に進むこともできる。
   圓光寺 、曼殊院(天台宗門跡寺院)、修学院離宮経由である。
   修学院南側の音羽川沿いに登山道入り口の雲母橋まで登ってみるのもよいかも。
   修学院は一般非公開だがこの辺りは散歩には適しているので気分が良い。
   この場合、帰途は修学院駅となる。
    → 「修学院駅」 [おでかけえーでん 沿線マップ]
(1+α) 京阪電鉄出町柳駅から下賀茂神社参拝も加えるとよいかも。
   さらに上賀茂神社へも。

次回に続く >>>


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