→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.20] ■■■ [附44] 清少納言の八講観 えらく違うと感じさせるのは、清少納言は極楽往生を目指した信仰生活とは全く無縁な日々を過ごしていそうなこと。 法華八講への参加についての記述も、信仰心にえらく乏しい印象は否めない。どう読もうと、外出娯楽の一種と見なしており、社交の一部分という位置付けだからだ。この辺りのあからさまな表現が凄い。「源氏物語」の描く王朝絵巻としての法華八講と好対照。 小白川といふ所は、小一条大将殿の御家ぞかし。そこにて上達部、結縁の八講したまふ。・・・ 菩提といふ寺に、結縁の八講せしが、聽きにまうでたるに、・・・ そこに説経しつ、八講しけり・・・ それが、当時の人気法会の一面を示していることは間違いあるまい。 おそらく、そういうこともあって、「今昔物語集」は法華八講を正面から取り上げることを避けているのだと思う。 もちろん、そこそこ、八講に係わる話は収載されてはいるが。 ●[巻十三#43]女子死受蛇身聞説法花得脱語 西の京、・・・家広く・・・東の台の前へ近く紅梅・・・此の木の下にして法花経を講じて、八講を行ひけり。📖紅梅情緒 ●[巻十四#11]天王寺為八講於法隆寺写太子疏語 (四)天王子32代別当定基が御堂藤原道長のため八講開催を企画。河内守藤原公則が地租を提供。このお蔭で、後々まで、別当が引き継いで行くことができた。📖法華義疏 ●[巻十五#39]源信僧都母尼往生語 956年15才の源信は、村上天皇から法華八講の講師の一人に選ばれ、褒美の品を下賜された。📖源信物語 [3:母からの手紙] ●[巻十九#28]僧蓮円修不軽行救死母苦語六波羅密の寺に行て、法華の八講を行ひけり。📖報恩 何と言っても、引用してもよさそうな譚をあえて外している点が大きい。 ○「三宝絵詞」中巻18大安寺榮好(出佚書「石淵寺ノ縁起記」) 大安寺僧 栄好は、貧しかったが、童に命じて、毎日食事を寺外に住む母に届けさせていた。 自分と、童、母親、物乞いで4等分し。 ところが、ある日急死。 栄好の親友、隣房の勤操が、自分の分で、これまで通りにするよう、童を自房へ。 このため、栄好の母は、翌年まで栄好の死を知らずにいた。 ある時、客人が到来し薬酒を勧められ、母親への食事の手配が遅れた。 母親は異変に気付き、童を問い詰め真相を知る。そして嘆き悲しみ死んでしまった。 ことの次第を聞いた勤操は、 「もし、本当の息子なら、こんなことはありえない。 もし、仏が制している酒を飲まなければ、こうはならなかったのだ。 かた時も思いがあれば、忘れることなど有り得ない。」 と言って、泣いたのである。 そこで、同法の人 7人を連れて、遺骸を石淵寺の山に葬った。 そして供養のために、8人で法華経八巻読誦を誓った。 この年、796年から、同法八講は毎年続けられた。 勤操は高僧であり、決して無視しているわけではない。 〇道慈[n.a.-744年]巻十一#_5…入唐702年【三論宗3伝】@大安寺 └┐ ┼〇善議[n.a.-812年]、信霊 ┼└┐ ┼┼〇勤操/石淵僧正[754-827年]巻十一#_9 📖三論成実論伝法僧 754年 誕生 12才 出家(師:信霊)@大安寺 770年 千人得度@興福寺 16才 住持修行@南獄窟(和泉槇尾山施福寺) 20才 受戒 23才 具足戒 寺僧(師:善議) 796年 石淵寺@高円山で法華八講創始 813年 律師 最勝王経講師@紫宸殿 大安寺別当 東寺・西寺造営別当 弘福寺別当 石淵寺別当 大僧都 827年 示寂@西寺北院 ●[巻十一#_9]弘法大師渡唐伝真言教帰来語 空海が「虚空蔵求聞持法」に従い、真言を百日間百万回口誦しあらゆる経典を記憶理解できるようになったとの伝承があるが、その切欠は勤操なのだ。 "大安寺の勤操僧正と云ふ人に会い、虚空蔵の求聞持の法を受学て、心を至し持て念ける。" 📖弥勒菩薩 📖文殊化身 ただ、この石淵寺については、奇妙な話を掲載している。 ●[巻十四#_4]女依法花力転蛇身生天語 参詣すると戻れず死ぬと言われた東山の石淵寺に、724-749年頃、吉備真備大臣があえて参詣。 すると、夜、女が出て来た。 一夜の契りを交わし、金千両を頂戴したが、それに執着して墓に一緒に埋葬させたので、毒蛇に転生してしまった。そこから逃れるために、法華経追善供養をしてもらいたいと頼まれたのである。・・・ 📖藤原広嗣の乱 現在、この寺は跡形も無く消え去っている。ただ、伝承は残っている。東山3山の南にあり、他の2山を上から睥睨するような地勢なので嫌われたのかも。 (志貴皇子山荘⇒岩淵寺子院⇒)白毫寺 (霊松庵[巌渕千坊]⇒)帯解寺 (梵福寺[善謝創基]@鹿野園⇒[岩淵寺子院?]⇒廃) 四月堂(三昧堂)旧蔵千手観音菩薩は天地院の岩淵寺の客仏(伝勤操作) 新薬師寺十二神将は岩淵寺から移動安置。 おそらく、法華八講は、平城京東山の石淵寺で勤操が始めたと記載したくなかったのだろう。 多くの解説ではそうなっているようだが、寺社の歴史解説を読むとそれぞれの主張がありそうだし、大流行中の法会について語るのを避けたと見てよさそう。 _782年 摂津弥勒寺八講@「諸寺縁起集」 _796年 石淵寺八講@「三宝絵詞」中巻18大安寺榮好(出佚書「石淵寺ノ縁記起」) _798年 東大寺天地院(行基私寺)八講 _798年 笠置寺八講 _881年 清和天皇一周忌追善八講 n.a. 熊野八講 n.a. 比良八講 ここで、素人にわかりにくいのは、八講と以下の様な法華講の線引きである。単に、全巻であるということなのか、派手なイベントにしたということか、僧の登竜門的法会でなく、もっぱら追善供養ということなのか、明確な定義が見当たらないからだ。なんとなく、世間の至るところで行われるようになった法会という風にしか映らないのである。 _606年 聖徳太子@岡本宮 _746年 勅会@東大寺羂索院(良弁)…毎年(〜1680年) _802年 @高尾山神護寺(最澄招請) _803年 @豊前香春社(最澄)⇒八講に _817年 興福寺南円堂(藤原冬嗣) _833年 勅会@大安寺 _967年 法華大会@比叡山…798年霜月會[十講@智忌日] 1072年 勅会@円宗寺…1116年始修"北京三会"📖法会一瞥 1248年 勅会@広隆寺…毎年 この八講だが、現代でも広く行なわれており、その場合のハイライトは3日目。 行基[668-749年]が始めたとされる薪讚「法華経をわが得しことは薪こり菜つみ水汲み仕へてぞ得し/即随仙人供給所須 採果 汲水 拾薪 設食」の歌を唱え、薪を背負い、水桶を担う者を加えた僧列の行道があるのだ。後世発祥とされるようだが、小生にはとてもそうとは思えない。龍頭寺/龍光寺・龍腹寺/龍間寺・龍尾寺@四條畷市南野での降雨竜帰依譚が発祥と違うか。📖法華経に帰依する降雨竜 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |