→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.17] ■■■
[170] 文殊化身
文殊菩薩についてはすでに取り上げているが、「今昔物語集」全体でどのような扱いがなされているかを見た訳ではない。
そんなところが気になるのは、俯瞰的に眺めると、文殊菩薩信仰とはどのようなものだったか、なんとはなしにわかってくるからだ。構想力のなせる技だろうか。マ、そういうことで、見ていこう。

その前に、五尊像を確認しておくと多少は参考になるかも。
 文殊菩薩は、獅子の背の蓮華座に結跏趺坐。
 持物は、右手に智利剣、左手に経典が載る青蓮華。
 先導役は善財童子。
(五台山の行で築堤)
 獅子の手綱を握るのが優填王。
 お供は仏陀波利と最勝老人
(天竺霊山の土を運搬)

と言うことで、文殊菩薩が係る譚を再度見ておこう。

  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#10]仏陀波利尊勝真言渡震旦語 [→仏陀波利三蔵]
  仏陀波利は当然ながら文殊菩薩の眷属とされる。
  ここでは、文殊菩薩は翁に化身する。

  【天竺部】巻三天竺(釈迦の衆生教化〜入滅)
  [巻三#_2]文殊生給人界語 [→文殊菩薩]
  五台山は全アジア的に文殊菩薩の聖地なのである。

もちろん、日本の僧侶にとっても。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#12]智証大師亙唐伝顕密法帰来語 [→琉球國]
   智証大師「我れ、宋に渡て、
  天台山に登て聖跡を礼拝し、
  五台山に詣て文殊に値遇せむ。
ただ、本朝の空海譚に登場する文殊菩薩はさほどの意身はなさそう。空海は弥勒菩薩なのだから。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_9]弘法大師渡唐伝真言教帰来語 [→弥勒菩薩]
  空海が皇帝から五筆和尚と名付けられた在唐時。
  城の内を廻り、河の辺りに。
  幣衣蓬髪の童子がやって来て、
  河の水の上で文字の書き競い合いをした。
  それは文殊菩薩だった。

しかし、本朝譚としては、何と言っても行基[668-749年]に係る話と言ってよいだろう。
  [巻十一#_7]婆羅門僧正為値行基従天竺来朝語 [→渡来高僧]
  題名で示される通り、文殊菩薩たる行基に会うため
  婆羅門僧正が来日した点が強調されている。
  [巻十一#_2]行基菩薩学仏法導人語 [→本邦三仏聖] [→架橋]
  行基は文殊菩薩の生まれ変わりとされた。

ただ、文殊菩薩の化身は、行基に留まっている訳ではない。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  [巻十七#38]律師清範知文殊化身語 [→圓通大師大江定基]
  入宋した寂照が皇帝拝謁。
  すると、皇子が数珠を自分の物と言う。
  それは、興福寺僧清範から頂戴しもの。
  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#_2]参河守大江定基出家語 [→圓通大師大江定基]
  寂照/大江定基、五臺山に参詣し、様々な功徳を修けた。
  供養していると、
  子を抱いて一匹の犬を連れた汚穢女が出て来た。
   :
  皆、これを見て、汚いので、って追い払おうと。
  寂照、それを制し、女に食物を与へ返そうと。
   :
  「文殊菩薩の化身がいらっしゃったのだ。」と言い、
  泣いて悲しみ礼拝・・・
  寂照の弟子の帰国談である。

ここで、まだ取り上げていない譚を追加しよう。

諸菩薩霊験譚の文殊菩薩にあたり、上記の興福寺僧清範が化身との巻17譚の直前の2つだ。
現代人には恐ろし気な話もあるが、法会に集まってくる人の特徴がよく出ている。
 [巻十七#36]文殊生行基見女人悪給語
 行基聖は日本の衆生の利益のための、
 五台山文殊菩薩の生まれ変わり。
 右京 元興寺の村での法会のため、
 七日間、説法をした。
 その辺り住む人達は、皆、集まった。
 庭で、皆に混じって、法を聞いていた若い女性いたが、
 髪に猪油を塗っていた。
 行基はこれを見つけ、
 「甚だ臭い。
  あの女は頭に血肉を塗っている。
  速やかに、遠くへ追い出すように。」と言った。
 」と言いました。
 女はこれを聞いて、大いに恥じ、庭から立ち去った。
 これを見聞きした人は、
 行基菩薩を只者ではないと貴んだ。

 [巻十七#37]行基菩薩教女人悪子給語
 行基菩薩は文殊の化身。
 難波江で堀を開鑿、船津を造成、仏
 法を説いて人々を教化。
 ある時、
 貴賤上下道俗男女が法会に集まっていた。
 河内若江 川派の郷の女が子供を抱いて聞いていたが
 子供が泣き叫んで、母に聞かせまいとする。
 10才を過ぎているが、
 足が不自由で、常に泣き叫び、物も言えない。
 すると、行基菩薩は
 「汝の子を、持って出て行って、
  淵にすてよ。」と言う。
 諸々の人々、
 「慈悲広大の聖人が
  どうして、そんなことをおっしゃるのだ。」
 と頭をかかえる。
 母は、慈悲の心からそんなことはできず、
 抱いたままで法を聞いていた。
 明くる日も、同じだったが
 子はさらに喧しく泣いたので、
 皆、法を聞くどころではなかった。
 行基菩薩は、再び同じことを言う。
 女は怪しんだものの、今度は、従った。
 淵に投げ入れられると、子は浮いてきて
 足を反らし、樅手し、目を見開き、憤りの表情で
 「妬ましいことだ。
  これから3年、責めたててやるぞ。」と言った。
 女は、戻ってきて、法を聞いたのである。
 菩薩は、その子供の前世は、借り物をした時の貸主。
 返さないままなので、
 返済を求めて、現世に転生したきたと言う。


小生の印象からすれば、行基の教化活動の対象に、社会から弾かれ、流浪化しかねない、乞食・浮浪者・病人 等々が大勢含まれている点が特徴と思われる。
鎮護国家の仏教とはおよそかけ離れた層が含まれている。言うまでもないが、国司に付き従う仏僧はあくまでも守のためだけにお勤めする訳で、朝廷非公認の仏教活動になりかねないギリギリの線で活動していたと見て間違いなかろう。
しかし、現代的な発想からすれば、社会秩序維持と経済発展を支える上では、この教化活動はとてつもない力を発揮したのである。
下層あるいは、社会から追い出されていた人々を、大型公共土木工事(水陸交通路と灌漑用水池)の労働力化したからだ。おそらく、工事用インフラ造りの過程で周辺開拓も行われるので、住民化も行われることになる。
そんな動きのなかで、法会は大規模な布施(貧困層救済)行為を伴っていたに違いなく、それは大型プロジェクト
推進のオルグ活動でもあったと言えよう。
それを組織的に支えたのが、俗でもある、乞食僧集団の筈だ。教団活動という点では、遊説と造仏(造寺)による拠点創出が核となっていたと思われる。
当然ながら、作られる文殊菩薩像とは行基像と同義となる。行基は、入滅後文殊化身と呼ばれたのではなく、活動中からそう呼ばれていたのである。

 (C) 2019 RandDManagement.com    →HOME