→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.12] ■■■
[469] 枕草子への複雑な想い
「枕草子」未稿から。
  ありえないもの
  水母の骨。

「今昔物語集」編纂者主宰のサロンで、談笑しながら語られた言葉。
皆、しみじみさせられたのである。

それは、水母こそ、本朝の由緒正しき情緒表現だからだ。📖古事記冒頭での日本的主張・・・
 国稚く 浮べる脂のごとくして、
 久羅下那州多陀用弊流
【この10文字は漢字による発音表記。】
 (海月なす漂える)之時
 葦牙の如く 萌え騰がる物に因りて成る神・・・
 ・・・上の件 五柱の神は、別天神ぞ。 
「古事記」上巻

もちろん、クラゲは「枕草子」では、102段にしか登場しない。滅多に得られぬ献上品と、その素晴らしさをクドクドと述べる中将に対して、清少納言がココゾとばかりすかさずの一撃。
 「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」

「今昔物語集」ではこれを踏まえ、短歌を収載したのである。📖多武峰
  瑞歯さす 八十路余りの 老いの波
   海月
[久良介]の骨に 会ふぞ嬉しき 増賀聖人

「今昔物語集」編纂者は、「枕草子」には目を通していても、「古事記」を読んだことはなかったかも。それでも、"海月なす漂える"という表現にはなじみがあった筈だし、上記のような文章流儀には感ずるところが大いにあったと思う。

常識的には、「古事記」は歴史書で、「枕草子」は随筆集で、「今昔物語集」は説話叢書とされるが、記(天皇紀)伝的文言があり、人物が織りなす事件が描かれ、コマ分けされて纏める形式を整えているという書き方という点では、なんらかわらない。
「枕草子」では筆者の感想が表だって記載されるため、他とは違う気になるが、ご教訓を一般論的に書いている「今昔物語集」とさしたる違いはなかろう。
従って、小生は、大いに影響を受けているに違いないと見る。

その「枕草子」だが、大胆にも、寺が評価されている。
「今昔物語集」編纂者もこれには苦笑させられたろう。当然ながら、どこかで触れておかざるを得まい。

と言うことで、眺めてみよう。
  寺は、壺坂。笠置。法輪。
  霊山は釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。
  石山。粉河。志賀。
 [「枕草子」二百八/百九十四段]

《壺坂》
壺阪寺/南法華寺[@奈良高市の高取山西側山麓703年元興寺弁基創基]は観音霊場。
10世紀に興福寺真興が入り顕教の法相宗から密教も真言宗に。
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#38] 藤原道信朝臣送父読和歌語📖和歌集 📖紅梅情緒
 左近中将藤原道信[法住寺 藤原為光の子]
 兄弟の藤原公信朝臣と共に、壺坂へ。

自然と和歌が生まれる世界ということか。

《笠置》
笠置寺[@相楽 木津川南岸682年 大海人皇子/天武天皇開基]は弥勒磨崖仏で知られる。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#30] 天智天皇御子始笠置寺語📖平安期の寺 📖弥勒菩薩
 天智天皇御子が鹿猟に。
 騎乗していたが、馬が崖で立ち往生し進退窮まる。そこで誓約。
  「若し此の所に座せば、
   山神等、
   我が命を助け給へ。
   然らば、
    此の巌の喬に弥勒の像を刻み奉らむ。」
 すると、馬が後戻りできたので助かり、
 笠を目印に帰ったのである。
 後日、その場所を訪れ彫ろうと悩んでいると
 天人が登場し助けてくれる。
 弥勒像を礼拝し帰る。
 これが笠置寺縁起。良弁が繁栄させた。


現代でも、どこだろうが磨崖仏は観光地である。大変な事業だから、それに纏わる伝承は必ずうまれるものだが、ここでの笠とは仏像上の天蓋であろう。
貴人の存在は笠で示すもので、そのお姿は見えないという古代からの伝統感覚に従った話であり、古墳時代あるいは、銅鐸の時代からの聖地であることを意味している可能性もある。

《法輪》
なんだかんだ言っても、嵐山には行かずにはおれまい。
法輪寺[@嵐山713年行基開基]はそこのお寺ということでは。
虚空蔵山に御参詣ということではあろうが。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  [巻十七#33] 比叡山僧依虚空蔵助得智語📖虚空蔵菩薩

《霊山》
清少納言はこの寺だけ、仏法的な一文を付けている。しかし、その本質は信仰というよりは、眺望名所という点にありそう。現代感覚では、狸山が愉しいとなりそうだが。
ただ、霊山寺(⇒正法寺)[@東山清閑寺霊山北東 伝教大師創建(光孝天皇勅願)]は京の浄土往生信仰者にとっては格別な地であったのは間違いない。「今昔物語集」では取り上げていないようだが、ここは源信が主導した霊山釈迦講の地だからだ。
その話を避けたかったのは、余りに眺望がよく、夕刻に訪れれば信仰者でなくとも、自然体で"日想観"を味わうことになるからだ。そうなると、西方に向かって念仏を唱える浄土信仰とは違う解釈が生まれかねないと危惧の念が生まれてもおかしくない。

《石山》
石山寺は、「蜻蛉日記」や」更級日記』にも描かれる定番の参詣先。 官女にとって、どうしてこの地が特別なのかはよくわからぬところがあるが、特別な香りが漂うお寺だったのかも。
収録されているのは、東寺の流れとして真言を崇むる所としての石山寺[@大津瀬田川右岸747年良弁開山聖武天皇開基]としてで、真頼の往生譚。811年に空海が修行に入ったことで、東大寺の華厳宗から真言宗に変わったと見られている。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#13] 石山僧真頼往生語📖往生譚の巻
この譚では、師として淳祐内供(十禅師[菅原道真孫890-953年])の名前があがっているが、3代座主である。922年空海御廟で膝に触れた手で筆記した「"薫"聖教」が伝承されている。戦火に見舞われなかったので、貴重品が数多く残存しているのである。
清少納言[966-1025年]が、この話を知らない筈がないし。「今昔物語集」編纂者も百も承知ではあるものの、入定地に入った話をお気軽にする訳にもいくまい。

《粉河》
粉河寺/補陀落山施音寺[@紀の川北岸770年大伴孔子古開基]は観音信仰の地ではあるものの、京からは遠すぎる印象があり、後世ならわかるが、清少納言の時代に、すでにそこまでして参詣する魅力があったのかよくわからない。紀伊での観音霊験譚は狭屋寺を収録しているし。

《志賀》
668年近江大津京の北西にある志賀山に鎮護寺として天智天皇が建立を始めたのが志賀寺だが、その時完成したかは、時代環境を考えるとなんとも。
場所的には、比叡山から見れば南東の尾根だし、琵琶湖の南西に当たる。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#29]天智天皇建志賀寺語📖弥勒菩薩
 天智天皇は大寺を起され、丈六の弥勒像を安置。
 右の名無し指を奉納。
 それを棄てた別当が狂い死に。
 寺の霊験も失せる。


その後、桓武天皇が786年に滋賀の地に梵釈寺を建立したとされる。
天智天皇供養とされるが、寺名名は梵天・帝釈・四天王を意味していそうだから、護国祈願寺だろう。
795年の勅で、この寺に清行禅師10人を置いている。しかも、"山水名区"に草創された"盡土木妙製、装錺伽藍"である。[「日本後紀」卷第四]
京の貴族にとっては、物見遊山の地としては垂涎の的であっておかしくなさそう。
正確には志賀寺=帝釈寺ではないものの、隣の尾根土同士で、古い方は廃れて樹木のなかで目立たなくなっていただろうから、通称的には同一と見てよいのでは。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#_7] 梵釈寺住僧兼算往生語📖本朝往生譚

 (C) 2020 RandDManagement.com    →HOME