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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.4] ■■■
[34] 倭建命英雄譚が皇国史観に繋がるのが面白い
判官びいきであっても、源氏政権の鎌倉幕府に肩入れしている訳でもなく、頼朝嫌いになる訳でもないという体質は、なかなか分かりずらいところがある。

倭建命も、義経同様に、悲劇の英雄として人気があるとされているので、そんな点を中心に見ておこう。

はたして一般的見方かは定かではないが、官製の皇国史観一色の時代に、大いに喧伝されたから流行っただけとの説明をしばしば見かける。しかし、権現化し、仏教全盛期にすでにそこここで祀られていたようだから、もとから幅広い人気を得ていた可能性が高く、冷静な判断が必要な気がする。それに、なんとなくだが、暴虐的で性愛に拘る英雄が登場してくる、インドの叙事詩信仰と似た社会風土を感じさせるところがあり、造られた偶像と短絡的に見ない方がよいだろう。

そうなると、「古事記」譚は叙事詩的観点で素晴らしい出来と言えると書きたくなるが、多少、ひっかかるものがある。
読み方にもよるが、悪意を持って書いている気がしないでもないからだ。太安万侶は蛮族征伐などと端から見ていないから、朝廷の共存政策変更であって、当然ながらそれは騙し討ち成功万歳譚とみなす筈だし。📖"紀"との混淆は無意味だが比較には意義あり

以下に、解釈がかなり加わっているものの、わかり易いので、Wikiの粗筋を引用させて頂こう。
◇父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害する。
天皇:「何故に、汝の兄(大碓命)は、朝夕の大御食に參加出來ないのだ?
    汝がねぎらい、しっかり教え自覚させるように。」
その後、5日に渡っても、尚、不参出のまま。
天皇:「何故に、汝の兄(大碓命)は、ずっと、不参出なのだ?
    ということは、汝は、未だにねぎらっていないのではないのか。」
小碓命:「既に、ねぎらいました。」
小碓命:「朝、署で厠に入ろうとする時を待ち構え、
    捕らえて縛り打ち、
    手足を引き千切り、菰に包み投棄しました。」

そのため小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。
◇わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました。」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那と名乗る小碓命に名を譲って倭建の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
◇その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神(備後穴海)を平定し、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ…“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”」と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。
◇西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は倭建命に比比羅木之八尋矛を授け、吉備臣の祖先である御鋤友耳建日子をお伴とし、重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい。」と言う。
◇倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売と婚約をして東国へ赴く。
◇相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣という。
◇相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。
弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
◇その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂の神の白い鹿を蒜で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや(わが妻よ……)」と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。
◇尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。
「ひさかたの 天の香具山 とかまに さ渡る鵠 ひはぼそ たわや腕を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり…“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ”」
美夜受比売は答えて次のように歌った。
「高光る 日の御子 やすみしし わが大君 あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ…“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ”」
二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
◇素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう。」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
◇倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡ひ廻ろふ 野老蔓…“お墓のそばの田の稲のもみの上で、蔓草のように這い回って、悲しんでいます”」との歌を詠んだ。
すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな… “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”」と詠んだ。
また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ…“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”」と詠んだ。
白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ…“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”」と詠んだ。これら4つの歌は"大御葬歌"となった。
◇鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。


これを踏まえて、小碓命の系譜をじっくり眺めておく必要がありそうだ。
と言うのは、中巻であるとはいえ、倭建命の子孫でありながら、父 天皇の妃になり、子が生まれていたりするからだ。ここをどのように読み替えるべきかは、自分の頭で考えヨ、と突き放している訳だ。
そもそも、3太子とは、どういうことかよくわからない。口約束的な代理はよくある話だが、第1、第2、第3制度が成り立つとも思えず、3勢力のパワーバランス上設定されたとしか思えない。と言っても、何の情報も無い。せいぜいできそうなことは、入・帯・倭の3つの名前で系譜を想像してみる位のもの。はたして、そんな見方が通用するものなのだろうか。・・・
[10]御眞木入日子印惠命/崇神天皇📖
└┬
○豊木入日子(祖:上毛野君, 下毛野君)
○豊入日売(伊勢大神宮を拝祭)
○八坂之入日子
○沼名木之入日売
○十市之入日売
(伊玖米入日子伊沙知命)
[11]伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇📖
└┬△針間伊那毘能大郎女(旦波比古多多須美知宇斯王の娘)
├○印色之入日子…横刀1千口@命鳥取河上宮を石上神宮奉納
├─┐↓
├○
├△比売命(伊勢大神宮 拝祭)
└○
└┬△弟苅羽田刀弁(大国之淵の娘)
├○
└───────────────────┐↓
┌──┘↑
[12]日子(淤斯呂和気)天皇/景行天皇📖
│    …御子80人(記載は21王)で3太子以外はすべて、國造、和氣、稻置縣主。
└┬△針間伊那毘能大郎女(吉備臣の祖 若建吉備津日子の娘)
├○櫛角別王
├○大碓命
├●小碓命/倭男具那命/【太子】建命
│└┬△石衝毘売命/布多遅能伊理毘売命─┘↑
└◎[14]中津日子命/仲哀天皇📖
┼┼└┬△息長比売命/神功皇后
┼┼┼└◎[15]大鞆和気命/品陀和気命/応神天皇📖
├○根子命
└○神櫛王
└┬△八坂之入日売(八尺入日子命の娘↑)
├●【太子】[13]日子命/成務天皇📖
├●【太子】五百木之入日子
├○押別命
└△五百木之入日売
└┬△(妾)
├○豊戸別王
└△沼代郎女
└┬△(妾)
├△沼名木郎女
├△香余理比売命
├○若木之入日子
├○吉備之兄日子王
├△高木比売命
└△弟比売命
└┬△日向 美波迦斯毘売
└○豊国別
└┬△伊那毘能若郎女(伊那毘能大郎女の妹)
├○真若王
└○日子人之大兄王
└┬△訶具漏比売(倭建命の曾孫 須売伊呂大中日子王の娘)
└○大枝王/大江王
┼┼└┬△(庶妹)銀王
┼┼┼├○大名方王
┼┼┼└△大中比売命

倭建命は、太子であるにもかかわらず、「常陸國風土記」では倭武天皇/倭建天皇、「阿波国風土記(逸文)」でも倭健天皇命と称されている。「日本書紀」では太子即位年と年齢記載を基本としているところを見ると、立太子とは実質的な皇位継承を意味していそう。
そう考えると、[11]代の皇子 印色入日子命も、その名称からして太子であっておかしくない。つまり、[10]代初國之御眞木天皇からの主流派の頭領的存在。ところが、"帯/和気(分/別)"と称する弟が皇位継承。奪取されたのかも。[五十瓊敷入彦命(=印色入日子命)は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれた。[伊奈波神社@岐阜]社伝]<Wiki>]
その対立に乗じて立ち上がってきたのが瀬戸海勢力の雄 吉備-伊勢-尾張連合の"倭"勢力ということになる。
ほとんど遊びの推定と言ってよいが、3勢力が系譜入り乱れて覇権争いをしていたというのが、太安万侶の見立てだろう。皇室期待の星だった倭建命は、策略に乗せられて油断してしまい、敗戦の憂き目を見たことになる。

こうなるのも致し方ないところがある。皇子80人が現実的な数字かは、はなはだ心もとないところもあるが、それだけの数のご領地を手配できなければ、不満勢力のクーデター待望論が巻き起こる。朝廷との併存勢力を征伐していく英雄待望の雰囲気が強まるのは自然な流れ。朝鮮半島からの高級難民が大勢渡来してきた時期でもあったから、この傾向に拍車がかかったに違いない。領地を失った王族達が新天地を求めているのだから。しかし、考え方によっては、朝鮮半島での領地獲得でもかまわない訳で、朝廷の方針はぶれ続けるしかなかったろう。

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