→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.8.28] ■■■
[239] 「古事記」が伝える色彩記載方法
「古事記」は、色彩用語の使用についてはかなり慎重な印象を受ける。
色は個人の感性で受け取り方が大きく変わるし、抽象概念用語で色覚を説明するのは難しいからだろう。渡来人から色については情報を得ていたから、倭のセンスとの違いを理解していた可能性が高いから、尚更。
📖日本の色彩感覚は全く違っていたのではないか…

小生は、大学院時代に場違いな「色覚学」の単位をもらったクチで、明度や彩度という概念の分離がそう単純なものではなく、色の峻別は一筋縄でいくようなものでもないことを知った覚えがあるので、倭に"色"という抽象概念が通用していたのか、はなはだ疑問なところがある。・・・
📖色彩@「我的漢語」講座
■紫 ■紫丁香品红
淡粉 粉红
 洋红
鮭红 朱红 玫瑰红
■粉橙 ■橙 橘红
[米]
■金 ■黄
卡其 ■芥子
[象牙/乳白]
■褐/棕 ■珈琲 ■駝
■煙 ■焦茶
绿 ■叶青
黄绿 橄欖
■青草 ■青銅
■青 ■水
■群青 ■海軍青
■鋼青 ■青玉
淺藍  深藍
皇室藍
■黒 □白
■灰 ■銀
<推定:倭の古代四方色彩感>
□白…光=白し=夜明
■青…漠=漠し=日中
西■赤…顕=明し=夕暮
■黒…闇=暗し=影
アオ…活=生し=青草(葦牙)
 📖日本の色彩感覚の原点(明暗顕漠)
五行の中央を"黄"とする感覚とは違う。剥き出しの土の色を大地とする大陸と違い、水が流れ、草木に覆われている環境に住んでいれば当然な気がする。

「古事記」を読むと、その辺りがなんとなくわかってくる。
まず、第一に気付かされるのは、序文では中華帝国の色覚文字を漢語の名詞の一部として示しているのに、本文ではこの文字は全く使われていない点。倭の色覚は違っていたことを示していると言ってよかろう。・・・
[序文(漢文)]
 御紫宸而コ被馬蹄之所極
 坐
玄扈而化照船頭之所逮
 
絳旗耀兵
   天子を示す旗。
   それが兵を輝かせた訳だ。
   絳とは染爲絳色(赤色化)。

付け加えるなら、漢字の"緑"は一切使っていないし、"みどり"という訓読みもなさそう。
つまり、太安万侶は、「古事記」成立時〜奈良朝の色感覚を持ち込まず、古代の色感覚を記載するように努めていることになろう。
とすれば、倭概念では基本色から漏れる"黄"の扱いも、その目で見ていることになる。と言っても、出番は少ない。黄泉国と植物 蒲黄の表記で登場するに過ぎない。
倭の死後世界観に黄色があったとは思えず、名称を漢語の黄泉としてみただけだろう。・・・
[伊邪那美命+伊邪那岐命]
 黃泉
[菟+大穴牟遲神]
 即取其水門之蒲黃
尚、因幡/稲羽に棲む兎とは飼育系の穴兎ではないから、毛色は白色ではなく、薄茶色の野兎=素兎である。

従って、「古事記」に於ける、倭の"色"の端緒は、白丹と青丹ということになろう。しかし、これがどのように作られた色かは、曖昧な解説しかなし得ないのが現実である。・・・
[天石屋戶]
 取垂白丹寸手青丹寸手而
   📖丹寸手信仰のもと

はっきりと色を表現しているシーンは男女関係から始まる。・・・
[大国主命(沼河比売求婚)]
  青山に 日が隠らば 射干玉の 夜は出でなむ
  朝日の 笑み栄え来て
  栲綱の
[斯路]き腕
   :
  綾垣の ふはやが下に 苧衾
  柔やが下に 栲衾 さやぐ下に 沫雪の
  若やる胸を 栲綱の
き腕
  素手抱き 手抱きまながり

   📖榛と波理木の違い

染色が記載されているのは、日子遲~こと大国主命が出雲から倭國へ上ろうと騎乗する時、どの装束を着けるか迷うという内容の歌。嫉妬で怒る后を宥めるため、黒でなく、翡翠色でもなく、后が育てた草染め色を最適と見なしたとの主旨。もっとも、"沖つ鳥 胸見る"・"羽たたぎ"の意味は理解しにくい。海鳥に拘ることはわかるものの。 📖日本海側鳥信仰はかなりの古層
さらに、染色に係わる"あたね"も不詳だ。"あかね"と同一とか、"吾た根"は無理があり過ぎるが、茜の他に該当しそうな染色具がなさそう。・・・
[大国主命(嫡后須勢理毘賣命嫉妬)]
 "射干玉の
  
[久路]き御衣を 真具さに[=完璧に] 取り装ひ
  沖つ鳥 胸見る時[牟那美流登岐]
  羽たたぎも[波多多藝母] 此れは相応はず
  辺つ波磯に 脱ぎ棄て 鴗鳥[蘇邇杼理=翡翠]の
  
[阿遠]き御衣を
  真具さに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時
  はたたぎも 此も相応はず
  辺つ波磯に 脱ぎ棄て
  
山県(=直轄田)に蒔きし あたね[阿多泥]突き
  染め木が汁に 染め衣を

  真具さに 取り装ひ
  沖つ鳥 胸見る時・・・"

黒色染⇒青色染⇒"阿多泥"染ということで、染色具で色を想定させる表現が基本だったということになろう。"丹"の場合は、色付け方法がわかるように記載してあるし。
そうなると、青摺の"青"は色名でなく、染色具名かもしれない。紅も染色具名としての、紅草のようだし。従って、紅は色名の"くれない"と訓を振ってはならないことになる。紅は赤の概念に含まれていることになる。・・・
[豐玉毘賣命帰海神宮]
  獻歌之 其歌曰
   
赤瓊は 緒さへ光れど 白瓊
   君が装ひし 尊く有りけり

[初]神武天皇
  丹塗
[10]崇神天皇
  祭赤色楯矛 祭黒色楯矛
[11]垂仁天皇
  錦色小蛇
[15]応神天皇
 "端土は 膚赤らけみ[阿可良氣美]
  底土は
丹黒[邇具漏]き ゆゑ"
 阿為山 品太天皇之世
紅草生於此山 故号阿為山
[16]仁コ天皇
  つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根
 泥士漏能 斯漏[]多陀牟岐。・・・
 
皆變紅色
 有變
三色之奇虫
 服著
紅紐青摺衣 故水潦拂紅紐 青皆變紅色
[21]雄略天皇
 又一時 天皇登幸葛城山之時 百官人等 悉給著紅紐青摺衣服
 所服之
丹摺
 登坐榛上 📖榛と波理木の違い…榛色
[22]清寧天皇
 丹畫著
尚、神名等には、現代の色名の漢字が使われているが、多くは地名と見てよいのではないか。但し、白は、アルビノに対する神聖観が根底にありそうだし、青は、青人草が象徴する生命感イメージが濃厚。・・・
[名称]
 墨江
 白檮 白鹿 白猪 八尋白智鳥 白鳥 白犬 白髮
 青雲之白肩津 青葉山 青海 青山 青沼 青山 青垣 青柴垣 青人草 竹葉青 青萎
 美濃國藍見河 三嶋之藍
 金山 金鉏岡 勾之金箸
 翠鳥

[他]
 波邇[≒赤土]

源順[編]:「和名類聚抄」938年 巻十四調度部中二十二染色具#184
 蘇枋(須方)
 黄櫨(波邇之)
 蘗/黄木(岐波太)
 梔子(久知奈之)
 橡/櫟実(都流波美)…歴木=椚木/クヌギ 📖ドングリ時代を想定していたか
 (阿加禰)
 紫草(無良散岐)
 紅藍/呉藍(久礼乃阿井[俗:紅花])
 藍/藍澱附(阿井之流)
 黄草(刈安草)
 鴨頭草(都岐久佐)
 赤莧(阿加比由)
 黄灰(阿加佐乃波比)
 柃灰(霊灰)
 灰汁(阿久)

  黄櫨染@「日本後紀」
冬十月・・・禁女人著褐及黄櫨染色 唯節会日不在二禁限 [卷廿四嵯峨天皇/弘仁六年(815年)]
二月・・・正受朝則用袞冕十二章 朔日受朝 日聴政 受蕃国使、奉幣及 大小諸会則用黄櫨染衣 [卷廿八嵯峨天皇/弘仁十一年(820年)]
  紅花
藤ノ木古墳@6世紀から染料と花粉が出土しているし、纏向の溝跡土から大量の花粉が発見されたと言われている。正倉院経巻の黄色の紙は紅花染めであるという。防虫防黴効果が期待できるのであろうか。
エチオピア原産と推定されているが、油糧植物としてペルシアで栽培されており、そこからの伝来ということになりそう。


【追加コメント】
色彩を文字で伝えるのは難しい。倭は自然でみかける色をママ伝えていたから途轍もなく多種であるし、その表現では物足りないと染め材名を使うだけ。薄い濃いも、ここから来た用語だろう。周囲環境信仰風土では当然の姿勢と言えよう。 4色だけは別になるが、これは色という概念とは次元が異なっている。太安万侶はそれを認識していたことがわかる。暗記至上教育を受けてしまうと、おそらくここらは理解できない。
ついでながら、音になると困難性はさらに増す。と言うか、倭では、標準化させる、断続的な音符的表記は嫌っていた可能性もあろう。
(ここらはなかなか実感できない領域だが冨田勲"源氏物語幻想交響絵巻[最終版]"には、京ことばの朗読が入っているが、通常の、詩歌朗読+演奏とは違って聴こえる。口誦と楽器演奏が同類であることがなんとなくわかる。)

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME