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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.12] ■■■
[70]初代天皇と聖帝間は賢后のみが見所
序文の上巻📖目次的下巻題名は見事と下巻📖古代信仰推測に方法論ありを見たので、中巻。
  神倭伊波禮毘古天皇以下。
  品陀御世以前。
 爲中卷。

さぞかし、要旨で、叙事詩としての面白いネタを披歴しているかと思いきや、あっさりどころか、ほとんど無視状態の紹介になっている。

先ずは、上巻からの続きの記載部分。高千穂宮での東征決断が中巻の始めだか、天皇即位に至る直前の大和地区での苦闘の部分が掲載されている。
 神倭天皇 經歷 于 秋津嶋
 化熊出川 天劔獲 於 高倉
 生尾遮徑 大烏導 於 吉野
 列儛攘賊
 聞歌伏仇

そして、次が、[10]"初國之天皇" 御眞木入日子印恵命/崇神天皇
 卽 覺夢而敬~祇 所以稱賢后
この部分はすでに取り上げた。📖近淡海と遠飛鳥に注目する由縁
要するに、"賢后"と"聖帝"とし、"望烟而撫黎元"で対句にしてたかったのである。

"聖帝"は下巻冒頭に配されている。
このため、11文字の記載だけで、すぐに一挙に下巻に入ってしまうことになる。
確かに、時代区分で考えると、そんなくくりで十分かも知れないという気にならないでもない。
ナンダカンダり、細かく特徴をあげることもできるが、初代が苦労して奈良盆地に入ってから、何代にもわたって、国家として成り立つようにして行っただけとも言えるのだから。
考古学的に言っても、超巨大古墳登場が時代を画すのは誰が見てもあきらかだし、大和が中心の歴史が描けるようになってからそこまでが、一つの時代と見てかまわぬという主張はまとも。

ただ、"聖帝"の対句表現だからといって、"賢后"とするのははそれこそナンダカネ〜である。そんなことを表だって言う人は滅多にいないだろうが、ここまでくると、流石にとりあげない訳にもいくまい。
太安万侶が意を決して、折角、「紀」と別途出稿したというのに、「記紀」として無理に読まされるのだから、その意気を感じ取ってあげねば、ということで。

ここらは改めて書くことにしよう。

 ■■■ 古事記の歴史観 ■■■ 
  [8] 桜井時代
  [7] 初瀬川時代
  [6] 摂津〜河内〜和泉時代
  [5] 筑紫本営時代
  [4] 山の辺の道時代(東国)
  [3] 山の辺の道時代(瀬戸海)
  [2] 山の辺の道時代(盆地内)
  [1] 葛城〜金剛〜巨勢時代

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