表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.15 ■■■ 聖山中華帝国では、よく知られている通り、陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北、の各方位に位置する5つの山を聖山とみなした。「卷二 玉格」では、わざわざ、"名山三百六十,福地七十二(名称は山:[→「道教」])"と指摘している。至る所に地場信仰の対象があるが、それを官僚制度的ヒエラルキーに力づくで組み込むしかないのが、帝国の宿命ということ。広大な帝国であることを感じたいがための、五嶽とか五鎮山であってそれ以上ではなかろう。 五嶽を徘徊したところで、特段の意義などある筈もないのである。 天翁姓張名堅,字刺渴,漁陽人。 少不羈,無所拘忌。常張羅得一白雀,愛而養之。 夢天劉翁責怒,毎欲殺之,白雀輒以報堅,堅設諸方待之,終莫能害。 天翁遂下觀之,堅盛設賓主,乃竊騎天翁車,乘白龍,振策登天。 天公乘余龍追之,不及。 堅既到玄宮,易百官,杜塞北門,封白雀為上卿侯,改白雀之胤不産於下土。 劉翁失治,徘徊【五嶽】作災。 堅患之,以劉翁為太山太守,主生死之籍。 [卷十四 諾臯記上] 関係なかったか。 本来的には、長安がある峡西と、洛陽がある河南に、北都の太原がある山西、それに河北と山東の範囲が、中華帝国祭祀の心臓部たる地域の象徴的山であればそれで十分な筈。(尚、鎮山は「周禮 職方氏」に登場する用語だという。) 【陝西】 ▲五嶽"西嶽"華山@渭南華陰・・・全真道本拠地。南には黄山あり。 ▲五鎮山"西鎮"呉山@寶雞陳倉 ▲天下第一福地終南山@安戸 △[道教]驪山@秦嶺山脈 【河南】 ▲五嶽"中嶽"嵩山@鄭州登封・・・禪宗祖庭でもある。 △[道教]王屋山@濟源 △[道教]雲台山@焦作修武 △[道教]雲夢山/鬼谷山@鶴壁淇 【河北】 ▲五嶽"北嶽"恒山/<古>大茂山@曲陽・・・谷を隔てた南側は五台山。 △[道教]蒼岩山@石家庄 △[道教]天桂山@石家庄 【山東】 ▲五嶽"東嶽"泰山/岱山@泰安 ▲五鎮山"東鎮"沂山@臨朐 △[道教]嶗山@青島 △[道教]昆嵛山@威海-烟台 【山西】 ▲仏教四名山(+1)五臺山/清涼山・・・霊山信仰を受け継ぎ、釈迦牟尼脇侍の文殊菩薩への尊崇の地に。大孚霊鷲寺/大華厳寺[唐 武則天]/顕通寺[明 太祖]は後漢時代に建立されたという。 ▲五鎮山"中鎮"霍山@霍州 △[道教]綿山/介山@介休 成式が関心を示したのは、首都長安近くの終南山[→「昆明池と終南山」]と、五嶽のうち西の華山、東の泰山、中央の嵩山。北の恒山には触れていない。 邢和璞偏得黄老之道,--- ---顧邢曰:“此非【泰山】老師乎?”--- [卷二 壺史] → "邢和璞"「唐朝道教の変遷」 明皇封禪泰山,張説;為封禪使。説女婿鄭鎰,本九品官。舊例,封禪後自三公以下,皆遷轉一級。惟鄭鎰因説驟遷五品,兼賜緋服。因大脯次,玄宗見鎰官位騰躍,怪而問之,鎰無詞以對。黄幡綽曰:“此【泰山】之力也。” [卷十二 語資] → "岳父"「反閨閥」 ---省近從【泰山】回,路逢飛天野叉攜賢妹心肝,我亦奪得。”--- [卷十五 諾皋記下] 大和中,鄭仁本表弟,不記姓名,常與一王秀才遊【嵩山】,捫蘿越澗,境極幽後,遂迷歸路。--- [卷一 天咫] 洛中鬻花木者言:“【嵩山】深處有碧花玫瑰,而今亡矣。” [續集卷九 支植上] 真人用寶劍以屍解者,蟬化之上品也。鍛用七月庚申、八月辛酉日,長三尺九寸,廣一寸四分,厚三分半,杪九寸,名子幹,字良非。青烏公入【華山】,四百七十一歲,十二試三不過。後服金汋而升太極,以為試三不過,但仙人而已,不得真人位。有傳先生入然山七年,老君與之木鉆,使穿一盤石,石厚五尺,曰:“此石穴,當得道。”積四十七年,石穿,得神丹。 [卷二 玉格] 人足,處士元固言,貞元初,嘗與道侶遊【華山】,谷中見一人股,襪履猶新,斷如膝頭,初無瘡跡。 [卷十 物異] 有史秀才者,元和中,曾與道流遊【華山】。時暑,環憩一小溪。忽有一葉,大如掌,紅潤可愛,隨流而下。史獨接得,置懷中。坐食頃,覺懷中漸重。潛起觀之,覺葉上鱗起,栗栗而動,史驚懼,棄林中,遽白衆曰:“此必龍也,可速去矣。”須臾,林中白煙生,彌於一谷。史下山未半,風雷大至。 [卷十五 諾皋記下] 泰山の奥座敷的地域には八仙洞があり、そのなかに"貝丘[山東博興]の西の玉女山"が含まれる。そこでの"女界山の時間"話も収載されている。 → 「異界の時間」 一方、仏教は、山東初建立[351年]と言われる郎公寺/神通寺の僧の話。 盧縣[山東]東有【金榆山】[金輿山],昔朗法師令弟子至此采榆莢,詣瑕丘市易,皆化為金錢。 [卷三 貝編] 金驢,晉僧朗住【金榆山】,及卒,所乘驢上山失之。時有人見者,乃金驢矣。樵者往往聽其鳴響。土人言:“金驢一鳴,天下太平。” [卷八 支動] 成式、山西では、介山を取り上げている。 李墉{n.a.−820年}在北都[山西太原],介休縣[@山西]百姓送解牒,夜止晉祠宇下。夜半,有人叩門雲:“介休王暫借霹靂車,某日至介休收麥。”良久,有人應曰:“大王傳語,霹靂車正忙,不及借。”其人再三借之,遂見五六人秉燭,自廟後出,介休使者亦自門騎而入。數人共持一物如幢扛,上環綴旗幡,授與騎者曰:“可點領。”騎者即數其幡,凡十八葉,毎葉有光如電起。百姓遍報鄰村,令速收麥,將有大風雨,村人悉不信,乃自收刈。至其日,百姓率親情據高阜,候天色及午,【介山】上有K雲氣如窯煙,斯須蔽天,註雨如綆。風吼雷震,凡損麥千余頃。數村以百姓為妖訟之,工部員外郎張周封親睹其推案。 [卷八 雷] さて、南だが、湖南の衡山。 【湖南】 ▲五嶽"南嶽"衡山/<古>天柱山@衡陽 "長寿寺の僧侶が衡山にいた時の話"[卷五 怪術] [→「湖南の蛇退治」] 韋絢雲:--- 又言:“【衡山】祝融峰下法華寺,有石榴花如槿,紅花。春秋皆發。” 衛公又言:“衡山舊無棘,彌境草木,無有傷者。曾録知江南,地本無棘,潤州倉庫或要固墻隙,植薔薇枝而已。” : 崔碩又言:“常盧潘雲:【衡山】石,名懷。” 三色石楠花,衡山石楠花有紫、碧、白三色,花大如牡丹,亦有無花者。 [續集卷九 支植上] 衡山に隠れて目立たないが、九嶷山/蒼梧山@湖南永州は舜が埋葬された地[史記 五帝本紀]であり、聖山として見なしてもよかろう。 桃核,水部員外郎杜陟,常見江淮市人以桃核扇量米,止容一升,言於【九嶷山】溪中得。 [卷十 物異] ただ、南の方については、一番の関心事は洞庭湖から四川へと続く一帯の呪術的様相が濃い社会だから、成式としてもそこらの"聖山"は大いに気になっていた筈である。 【湖北】 ▲四大道教名山武当山@十堰 【四川】 ▲仏教四名山(+1)峨眉山・・・霊山信仰を受け継ぎ、釈迦牟尼脇侍の普賢菩薩への尊崇の地に。後漢の時代に寺が建立されたという。 ▲道教発源地鶴鳴山@成都大邑 ▲四大道教名山青城山@都江堰 特に、峨眉山は朝廷も一目置く存在だったから、本当は真っ先に書きたかった対象ではなかろうか。なにせ、玄宗が官僚に命じて「ひと芝居[卷二 玉格]」[→]打ったりする位の山なのだから。(クーデターで峨眉山のお寺に逃亡してきて、ここで意気軒昂さを見せる必要があった訳だ。) 成式も、この山はお気に入りだった模様。朋友の案内で遊んだ話が掲載されている。いかにも楽し気であり、"無心"で山の自然に触れ、それを通じて四川の人々の呪術好き体質を感じ取ったということかも。 "金剛三昧と峨眉山に登る"[卷五 怪術] [→「天竺から帰還の倭僧」] 成式、呪術一辺倒の土着信仰には、馴染めないものの、その地域の心情にはわかるものがあったということ。 そう思うのは、「唐朝道教の変遷」[→]で取り上げた翟法言/乾祐[714-837年]の、官僚のヒエラルキーリスト非掲載の【漢城山】における、壇を作っての道教的祭祀の話が印象的だからだ。・・・ 翟法言、揚子江支流で塩作りの地に繋がる川が危険なので、安全な水運を実現すべく龍を鎮めることにした。もう一歩で完成だったが、従わぬ箇所があり、そこの女神が反抗する理由を語るのである。 細々として陸運しかないからこそ、どうやら皆食べていけるのに、大商人が易々と船で交易できるようになったら生活はどうなるのか、と言うのだ。勿論、乾祐、納得。 雲安[四川雲陽/夔]井[=鹽場],自大江[=揚子江]沂別派,凡三十裏。近井十五裏,澄清如鏡,舟楫無虞。近江十五裏,皆灘石險惡,難於沿溯。天師翟乾祐,念商旅之勞,於【漢城山】上結壇考召,追命群龍。凡一十四處,皆化為老人應召而止。乾祐諭以灘波之險,害物勞人,使皆平之。一夕之間,風雷震撃,一十四裏盡為平潭矣。惟一灘仍舊,龍亦不至。乾祐復嚴敕神吏追之。又三日,有一女子至焉。因責其不伏應召之意,女子曰:“某所以不來者,欲助天師廣濟物之功耳。且富商大賈,力皆有余,而傭力負運者,力皆不足。雲安之貧民,自江口負財貨至近井潭,以給衣食者衆矣。今若輕舟利渉,平江無虞,即邑之貧民無傭負之所,絶衣食之路,所困者多矣。余寧險灘波以贍傭負,不可利舟楫以安富商。所以不至者,理在此也。”乾祐善其言,因使諸龍皆復其故,風雷頃刻而長灘如舊。天寶中,詔赴上京,恩遇隆厚。歲余,還故山,尋得道而去。 [卷五 怪術] 成式の感覚、なかなか鋭いものがあろう。 道教の祖地と称する場所は色々あるが、小生は四川であるに違いないと見るからだ。 素人にしてみれば、「三星堆遺跡」の出土品を眺めれば、ソコに中華帝国の呪術体質の根源的なものを見つけてしまう。それに、時代的に中原の文化より古く、高度な祭祀様式があったのは間違いない。祭器類の製作技術や表現能力はとんでもなく高度だし。 中華料理における加熱調理の原則もここらが発祥だろう。つまり、古代は、西蔵〜印度との"香辛の道"を通した交流が盛んだったということでもある。北方の乾燥地帯における半生の肉食部族や、海側の海鮮食部族は、彼等からすれば遅れた文化ということになろう。 中原文化は、官僚統制で定住化を図った社会だから、著しく内部創造性を欠く。常に他所を眺め、繁栄している地からその文化を強権的に導入する以外に発展性を欠く。中原での歴史が記されている時代における、その渡来文化とは四川文化であった可能性が高かろう。 意外なことではないが、成式は、東側に目は向かなかったようだ。 もちろん、それなりの記載はある。例えば、仙薬が仙洞の地にありという、江蘇句容にある"【句曲山】五芝"[卷二 玉格]の話とか、霊威を示す廟ある山に妙なる樹木ありとの話。 月桂,葉如桂,花淺黄色,四瓣,青蕊。花盛發,如柿葉帶棱。出【蔣山】[江蘇南京紫金山]。 [續集卷九 支植上] 聖山としての意味が薄れ、草木の魅力ある山に変わっているということを示していると言えなくもない記述の仕方。 特に沿海側が言えるが、すでに唐代において詩山の地として爛熟状況に達していたのではあるまいか。海のシルクロードを通じたインターナショナルな風土も醸成されていたに違いないし。土着の守り神はあるものの、四川的な閉鎖的呪術を早くに脱し、"聖山"信仰感は薄れていたということではなかろうか。 【江蘇】 △[道教]茅山@句容-常州 △[道教]花果山@連雲港 【浙江】 ▲仏教四名山(+1)普陀山(島)@舟山・・・入唐日本僧慧萼が招来しようとした観音菩薩像が船を留めた事績{858年}発祥の信仰の地。普済禅寺建立の由縁。 ▲三山雁蕩山@楽清 ▲五鎮山"南鎮"会稽山@紹興・・・禹の死亡した地。河姆渡遺跡に繋がる山である。 【安徽】 ▲仏教四名山(+1)九華山/陵陽山/九子山@青陽・・・756年開山の化城寺[コ宗賜寺額名]で修行した入唐新羅僧金喬覚[696-794年]の遺体状況に基づく地蔵菩薩信仰が発祥。 ▲三山黄山 ▲四大道教名山齊雲山/白岳@黄山 ▲江南詩山敬亭山/昭亭山@宣城 【福建】 ▲[三教]武夷山 △[道教]太姥山@福鼎 【江西】 ▲三山廬山@九江鄱陽湖・・・慧遠[334年-416年]:東林寺 ▲四大道教名山龍虎山@鷹潭 △[道教]閣p山@宜春樟樹 △[道教]三清山@上饒玉山 【広東】 △[道教]羅浮山 そういえば、浙江台州には韋羌山があった。引用では境山である。聖ではなく、怪とされているが、本来的には愛おしい山だった筈。 → 「蝌蚪文字」[卷十 物異] 東北方面、西域の入口、雲貴高原、南端の島は視野外か。 【遼寧】 ▲五鎮山"北鎮"醫巫閭山 △[道教]千山@鞍山 【甘粛】 △[道教]崆峒山 【貴州】 ▲仏教四名山(+1)梵净山/三山谷@銅仁 【海南島】 ▲五指山 尚、崑侖山は、実在の山脈名ではあるものの、唐代は仮想の山でしかない。従って、上記の山々とは別モノと考えるべきだろう。(崑侖山は黄河源流の山のことである。青海の奥地であるから、誰も行き着いたことなどない訳で、"推定"霊山である。この状況だと、神聖な山ではあっても、One of them的存在にすぎない。しかし、仏教宇宙観を知り、それに擬えれば、中原の帝国観強化に好都合ということで、急遽、唯一無二の山に祭り上げられた可能性が高かろう。要するに、天帝が降り立つ際の地上の都が存在する山となった訳である。蓬萊、瀛洲、方丈という渤海信仰から、崑侖山に振ったと言うこともできよう。) 【青海-西藏】 ▲第一神山崑侖山 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |