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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.20] ■■■
[477] 鳥羽絵と「今昔物語集」成立過程
(冗長になろうかと。ご勘弁のほど。)小生は、"鳥獣戯画"、"信貴山絵巻"📖→が鳥羽僧正作と確信している。
たとえ、現存"物"が僧正示寂後製作品であろうが。
もちろん、「今昔物語集」も。📖鳥羽僧正
そして、そのパトロンは鳥羽法皇と見る。📖鳥羽院の命
院政期の産物と考えるからでもある。📖サロンの終焉
後三条天皇
└○白河天皇 誕生1053年 即位1073年 譲位1087年 崩御1129年
└○堀河天皇
┼┼├○最雲法親王[1104-1162年堀河天皇皇子]…49世天台座主
┼┼└○鳥羽天皇 誕生1103年 即位1107年 譲位1123年 崩御1156年
┼┼┼├○崇徳天皇
┼┼┼├○後白河天皇
┼┼┼└○近衛天皇

その理由は単純である。
仏教や僧を揶揄しているとしか思えない題材をとりあげていながら、僧が大切に伝承していこうと決心した作品だからだ。"鳥獣戯画"の蛙と猿の祈祷シーンや、法事で気が入らずよそ見するシーンなど、インテリ以外からみれば顰蹙モノであるのは間違いないだろう。
お笑いモノとしての絵のジャンルはあったにもかかわらず📖嗚呼絵師、それを敢えて"鳥羽絵"と呼んだのは、作者が鳥羽僧正臭いと考えた人が多かったことを物語るし。

例えば、米俵を雁行のように飛ばす絵にしても、面白い伝承話であるのは間違いないが、それが仏教信仰とどう繋がるのか、はなはだわかりにくい。📖飛鉢法
絵巻物など五万とあったにもかかわらず、そんな絵巻物が貴重な作品としてお寺で大切に保管されて来たことが驚き。
従って、唯一無二の作品と見なされていたことは間違いあるまい。僧だけでなく、参詣者にもその気分があり、是非にも拝見させて頂きたいとの要望も少なくなかったと思われる。

「今昔物語集」も同じことが言えそう。
こちらの場合は、ある段階に達した弟子に対して、俗人だろうが、出家者だろうが、何の理由も説明せず、一回は目を通しておくように、とそれとなく告げる習慣があったかも。

ただ、そのような作品だからといって、性情と作画才能から見て、作者は鳥羽僧正と見なすのは少々強引過ぎ。なんらかの、状況証拠が存在していたと考えるべきだろう。
ただ、現代から、素人が、それを指摘するのは無理と考えていたが、僧の系譜を追っていて、"そうでもなさそう感"がうまれてきた。
--- 僧の系譜 ---
  <法相宗>📖興福寺僧一瞥[改訂]
  <三論宗>📖三論成実論伝法僧
  <華厳宗>📖新羅仏教の特質
  <天台宗>📖本朝仏教の母
  <真言宗>📖嫌味な間違い

これらの僧の系譜は、断片的で信用度不明の三次情報を眺めて、一気に作ったいい加減なシナリオであてにはならぬ代物だが、全体を俯瞰し流れを創造することができよう。これこそが一番重要なところ。
だが、これが作れるなら、鳥羽僧正の動きも同じように描くことも出来るのではないか。当たらずしも遠からずのレベルで。

例えば、父が書いた「宇治大納言物語」との接点はこんな具合になる。・・・
○醍醐天皇
├○村上天皇
└○[10皇子]源高明[914-983年]
└○[3男]俊賢[960-1027年]権大納言
┼┼└○[2男]隆国[1004-1077年]権大納言
┼┼┼[長男]隆俊[1025-1075年]
┼┼┼[2男]隆綱[1033-4年]
┼┼┼[3男]俊明[1044-1114年]
┼┼┼[6男]国俊[n.a.-1099年]従五位上 1098年陸奥守
┼┼┼隆基
┼┼┼公綱
┼┼┼定賢[n.a.-1100年]…33代東寺長者
┼┼┼隆覚
┼┼┼[9男]覚猷/鳥羽僧正[1053-1140年]
┼┼┼長俊
┼┼┼隆信
┼┼┼藤原俊家室
┼┼┼橘俊綱室
父、源隆国は宇治平等院南泉房でサロンを持ち、三国の経・抄・論・釈から抜いてきて、1071年に「安養集」を編纂した。一気に仕上げたようである。目的は「往生要集」補遺。
小生は、鳥羽僧正もこのプロジェクトに参加したと見る。父から呼ばれたのではなく、師の命。

こんなことを言い出すことははなはだ難しい。鳥羽僧正の年譜を描ける情報がほとんどないからだ。・・・
  1053年 誕生
  1065年頃か 出家…師:覺圓
  n.a.   灌頂…頼豪阿闍梨
  1058年    法成寺焼失 藤原頼道再建
  1059年    ⇒阿弥陀堂・五大堂
  1079年    ⇒2塔・十斉堂、釈迦堂、法華堂
  1079年 法橋法成寺修理別当の功
  1081-1094年 40代四天王寺別当
  n.a.   法輪院坂本建立・籠居
  n.a.   「法輪院本」(密教図絵集)
  1099年 宇佐八幡宮への納経勅使
  n.a.   法勝寺別当
  1113年 法眼
  1120年  <推定:「今昔物語集」成立>
  1121年 法印
  1130年 権僧正
  1131年 梵釈寺別当
  1131年 鳥羽離宮南殿付属御堂 証金剛院別当(常住護持僧)
  1132年 僧正
  1134年 大僧正
  1134年 法成寺別当
  1135年 28代園城寺長吏
  1138年 47世天台座主(3日間)
  1140年 示寂…遺言:"処分は腕力によるべし"
"1065年頃か"という記載に注意して欲しい。年齢からの一般的推測ということではなく、師の年譜からの想像。覺圓が大僧正となった時と見たのである。
  1031年 誕生[父:藤原頼通]
  n.a.   出家[師:明尊]
  1054年 権少僧都
  1055年 法印
  1063年 園城寺長吏
  1064年 平等院第2代執印
  1065年 大僧正
  1077年 34世天台座主(3日間)
  n.a.   法勝寺初代別当
  1096年 牛車宣旨
  1098年 示寂
普通に考えれば、鳥羽僧正は園城寺で修行ということになろうが、覺圓は平等院の差配役になったばかり。しかも、宇治僧正と呼ばれたところから見て住持していた可能性は高い。
<平等院>1051年藤原頼通開基 氏寺
  初代執印:明尊[971-1063年]@円満院29世天台座主(3日間)㉘㉚
  2代執印[1064年]:覺圓/宇治僧正[1031-1098年藤原頼通子]34世天台座主(3日間)
従って、鳥羽僧正は出家後に平等院で修行していた可能性は否定できまい。
そうだとすれば、1965年に出家して平等院覺圓僧房に居ることになり、平等院南泉房の1070年のプロジェクトを手伝わされたと見て間違いあるまい。プロジェクトの性格からして、メンバ−は「往生要集」理解が大前提となっており、その上で、網羅的に仏典が集められて、徹底的な読み込みが行われたのである。
ここで鳥羽僧正の才能が開花したと思われる。もともと、誕生時点から僧侶にすべく兄弟に交じって育てられていたから、基礎がしっかりできたことも大きかろう。

さらに注目すべきは、法成寺修理別当の功で法橋位を得たこと。特段の功績を認められたということではなく、修理完了のお祝の定番ではあるが、この仕事に指名されたことから見て、師はその家柄と才で目をかけたことを示している。そして、宇治僧正としての眼から見て、絵画のセンスにも一目置いていたのではないか。
1068年絵仏師教禅が法成寺御仏図絵で法橋位を得ているからだ。法成寺は平等院のモデルでもある超巨大で素晴らしい浄土的伽藍だったから、その修理別当に要求される能力は極めて高かったと見てよいだろう。
そんな経験があるからこそ、後に、園城寺で密教図絵集「法輪院本」を纏めることに繋がったと考えることもできそう。

しかし、だからといって、それが"鳥獣戯画"、"信貴山絵巻"や、「今昔物語集」へ繋がるとは思えない。そこへの飛躍につながったのは、四天王寺の経験。
 <四天王寺別当>
  初代円行[799-852年]…入唐八家
  27代[1016年]道命[974-1020年藤原道綱子]  良源系 花山上皇と親交
  28代定基/寂照[962-1034年]  源信系
  29代教円[979-1047年藤原孝忠の子]28世天台座主
  30代延円/飯室阿闍梨/絵阿闍梨君[n.a.-1040]@安楽律院
  31代
  32代斎祇[藤原道綱子:道命弟]
  33代源泉[976-1055年]@法輪院31世天台座主(4日間)
  34代明快/梨本僧正[987-1070年]32世天台座主
  35代
  36代[1057年]済算…寺門 (余慶20世天台座主・の弟子か?)
  37代[1062年]覚助/法泉房[1013-1063年藤原道雅子] @園城寺花王院
  38代
  39代[1066年]永覚[敦道親王][華厳]東大寺別当
  40代[1081年]覚猷/鳥羽僧正[1053-1140年 源隆国九子]47世天台座主(3日間)
  41代[1094年]増誉[1032-1116年 藤原経輔子]聖護院建立 39世天台座主(2日間)
もちろん、聖徳太子の戦勝祈願の由緒ある官寺だが[巻十一#1,21]、斎祇が別当の頃に法華八講が始まり、太子生誕の地の法隆寺とも密接な親交があったことがわかる。[巻十四#11]
しかし、現実のお寺の運営は、初代別当は弘法大師弟子となった真言の円行。そして、震旦での飛鉢の定基譚[巻十九#2]や道命阿闍梨譚[巻十二#36]の主人公も別当である。長く別当職で住持していれば、そういった昔の別当の人となりを耳にして思うところも多かっただろう。この寺は、もちろん兼学が寺是だが、それよりはすべての宗派に開放的風土を維持することを重視していたようだ。安居には熊野詣だったようだし。[巻十三#34]
謡曲「弱法師」は天竺"拘拏羅太子抉眼依法力得眼語"[巻四#4]が元ネタだが、翻案というより、四天王寺に伝わっていた話だったのではあるまいか。📖好眼鳥
信貴山とも深い縁があることを示しているのは間違いあるまい。
 河内高安@八尾の信吉長者は清水寺に祈願し子を授かる。
 9才から、比較的近くにある、平群の信貴山で3年間学び学僧に。
 天王子の聖霊会での稚児舞で
 和泉近木庄@貝塚の蔭山長者の娘 乙姫と結婚の約束。
 その後、母死去で義母ができたが、
 呪訴されて盲目に。ハンセン病に罹り天王寺に捨てられてしまう。
 お告げで、天王寺七村で物乞い。
 命を繋いだが、食が細いので弱法師と呼ばれた。
 そのうち再びお告げ。
 熊野で入湯すれば治癒するとのことで、
  天王子出立。
  阿倍野五十町
  住吉四社明神
  堺の浜
  石津畷@堺
  大鳥@堺 鳳
  信太@和泉
  井の口千軒
  近木の庄 地蔵堂…実は乙姫の館


信貴山縁起の特徴的な点は、それがはたして仏画のジャンルに入るかという点。この絵巻の画期的なところは、仏絵師が非仏絵的に描き、仏絵とした点にあるのでは。つまり、出家していない絵師に仏絵を描くように勧めた絵巻という意味もあるということ。
808年、宮廷用絵画(非仏画)を担当する中務省画工司が廃止され内匠寮に統合となり、9世紀中頃には絵所預と称すようになったが、こうした専門絵師達の出家を促進させる動きでもあったろう。そうして、珍海[宮廷画家藤原基光の子1091-1152年]@東大寺がうまれたりしたのだろう。
花山上皇勅で書写山性空上人画を延源阿闍梨が製作との話も収録されており[巻三十一#4]、仏画は重要になっていることがわかる。鳥羽僧正の師である覺圓もその観点で長けていたようだ。その薫陶を受けた僧正の鑑賞眼は相当のもので、画僧としても認められていたようである。
この作画だが、一般には、1002年のことで、大和絵宗家第5代の巨勢広高であるとされている。後の興福寺の巨勢派誕生につながる流れでもある。📖性空聖人

ただ、本格的に絵を始めたのは、本来的には本寺たるべき園城寺に入ってから。法輪院を建立し、法勝寺別当になる辺りと思われる。時代的に見ればこんな具合。
  1071年 日吉初行幸(後三条天皇)
  1077年 白河天皇日吉行幸
  1077年 覺圓/宇治僧正[1031-1098年頼通子]34世天台座主(3日間)
  n.a.     ⇒法勝寺初代別当
  1087年---73代堀河天皇[1079年誕生]即位
  1094年 師通関白…大江匡房路線
  1099年 師通逝去⇒長男 忠実内覧[1078-1162年]
  1100年 忠実右大臣
  1105年 忠実関白
  1103年---鳥羽天皇天皇誕生
      母没 白河法皇養育
      立太子
  1107年---74代鳥羽天皇即位(堀河天皇崩御)
  1120年  <推定:「今昔物語集」成立>
  1121年 忠通関白
  1138年 行玄[1097-1155年 師実子48世天台座主]授戒(鳥羽上皇・忠実)
   <法勝寺別当>
    1 覺圓
    2 覚猷
    3 行尊[1055-1135年 源基平子]…平等院大僧正とする理由は不明
鳥羽僧正は、密教図絵集に凝ったのだろうが、その合間に鳥羽天皇用に鳥獣戯画を作成したのではないか。おそらく、「宇治大納言物語」も乳母の取り巻きが話したので、両者ともに愛されたと思うが、文字が読めるようになったら、いくら少年といえども、愛着の情を示すのは憚れよう。
そこで、絵巻は寺行となり、「今昔物語集」作成の命が非公式に出たということでは。実態がわかるような書にせよという仰せ。そこで、急遽、昔のネットワークをつてに始めたところ、法勝寺別当になり、白河院取り巻きを含む様々な人々を呼び込んでの閑談サロンを開設したのであろう。
ただ、自身は鳥羽天皇へ仕える身なので、白河院の御威光には肖れないから、身分向上路線に乗りにくい。しかし、そのことでサロンの自由な雰囲気が醸成されたと言えるかも。

僧正になったのは、ほぼ70才と極めて遅く、教団組織内での角逐を上手に避けながら、幅広いネットワークからなるサロン活動に力を入れたいたことを意味していそう。そんな活動を逐一見ていた鳥羽上皇は、少年時代を思い出し、鳥羽僧正を離宮に呼び寄せたのでは。

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