→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.15] ■■■ [歌の意味20]太后石之日賣命は人気歌人 -----皇后御製----- 《上巻》国生み [前駆 伊邪那美命]📖綾に吉愛男を 《上巻》@出雲・八尋和邇 [__6 須勢理毘賣命 ~語]📖八千矛の…吾はもよ女にしあれば [__8 豊玉比売 獻歌 via 弟 玉依毘賣]📖赤瓊は緒さへ光れど 《中巻初代天皇段》 [_18 伊須氣余理比賣]📖何故黥ける利目 [_21 伊須氣余理比賣]📖狭井川よ雲立ち渡り [_22 伊須氣余理比賣]📖畝傍山昼は雲と居 《中巻10代天皇段》 《中巻倭建命関連》 《中巻15代天皇段》 [_40 御祖 息長帶日賣命]📖此の御酒は吾が御酒ならず 《下巻16代天皇段》 [_58 大后 志都歌之歌返]📖つぎねふや山代川を川上り [_59 大后 志都歌之歌返]📖つぎねふや山代川を宮上り 《下巻17代天皇》 《下巻軽王・軽大郎女》 《下巻21代天皇段》 [101 大后]📖倭の此の高市に 《下巻23代天皇関連》 歌自体は、激怒し家出を決意して詠っただけだが、恋する余りの所業ということで、人気を集めたということだろう。「萬葉集」では別格扱い。・・・ --- 「萬葉集」代表的歌人 --- 🈜【 古 】⑯磐姫皇后/石之日売 ㉑雄略天皇 ㊀【飛 鳥】舒明天皇 天智天皇 天武天皇 (額田王) ㊁【白 鳳】持統天皇 (柿本人麻呂) ㊂【平城京】(大伴旅人 山上憶良 山部赤人) ㊃【奈良都】(大伴家持) 代表的恋歌歌人としての地位を認められているように映る。・・・ [巻二 相聞(冒頭)] 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] 磐姫皇后思天皇御作歌四首 [巻二#85]一 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ 【左注】右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉 [巻二#86]ニ かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根しまきて 死なましものを [巻二#87]三 ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに [巻二#88]四 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ [巻二#89]或本歌曰 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも 【左注】右一首古歌集中出 ここで問題になるのは、一番歌が、「古事記」では、歌人が⑯大后ではなく軽大郎女であること。・・・ [_88 軽大郎女] 君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ📖 「萬葉集」でもそのことについて触れられているものの。 [巻二#90]古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀慕而追徃時歌曰:君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ 【左注】右一首歌「古事記」与「類聚歌林」所説不同 歌主亦異焉 因檢日本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云々 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬 取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后 到難波濟 聞天皇合八田皇女大恨之云々 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子 木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云々 遂竊通乃悒懐少息 廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親々相奸乎云々 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也 嫉妬深く、宮出を挙行し、山代川を上った同一人物の歌とはとうてい思えない、可憐な作品が並んでいる。専門の歌詠み人による古い歌の持ち出しであるように見受けられる。 「古事記」でのイメージを打破しようとの取り組みと見てよさそうである。天皇が、祭祀を一手に司る気性激しき大后に振り回されるなどもっての他ということか。 「萬葉集」編纂者の気遣いはかなりのもので、大后だけ並べるのでは宜しくなかろうと考えたのか、大后により宮から放逐された皇女 八田若郎女の歌も1首収録されているのが面白い。 [巻四#484 相聞(冒頭)]難波天皇妹奉上在山跡皇兄(仁徳天皇)御歌一首 一日こそ 人も待ちよき 長き日を かくのみ待たば 有りかつましじ 教科書的な耐えて待つ恋歌だが、この手の作風に人気が集まっていたことを示しているとも云えよう。 「古事記」の対応歌はこちらになる。 [_66 八田若郎女]📖八田の一本菅は独り居りとも大君し宜しと聞こさば独り居りとも (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |