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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.3] ■■■
[122] 石寸から王陵の谷への改葬とは何か
"いわれ"伊波礼/磐余について取り上げたが📖伊波礼の地は失墜したのか、漢字表記には石寸もあるので、そういえば、と思い出したのが石寸掖上と言う[31]橘豊日命用明天皇の御陵地名。📖池邊宮

池邊宮は伊波礼にあり、桜井一帯に目立つモニュメントを造る気でもなければ、宮の傍らの地に設置する理由はなかろう。
ここらには、卍阿部文殊院があるから、土着は阿部一族で、古墳もその関係だから、その系列と見なされかねないから常識的には避ける筈だ。
と言うことで、当然ながら、改葬されて場所が移るのだが、わざわざそのような記載をする必要があるとも思えない。ただ、最終の33代も改葬の旨があるので、なんとも言い難しだが。

殯用とか、遺言とでもいうべき寿陵が未完成なので仮といった例は少なからずあったろうし。一体、何を伝えたかったのか、気になってきた。
もっとも、考えてわかるような問題とも思えないが、状況を眺めておくことにしよう。

石寸掖上御陵の移転先は科長中陵@磯長谷古墳群。梅林御陵とか王陵の谷と呼ばれている地域だ。📖御陵記載が必須である意味

太子御廟@叡福寺がある町の4Km四方に4天皇の御陵があり、前方後円墳時代から、有史の飛鳥時代への移行期📖前方後円墳の消滅に当たる。ここでは、方墳(石棺収容と被覆方法の違いで基台方形円墳にもなる。八角は角切での皇位表示[日本の特殊形]。)へと変わっていった様子が見て取れる。📖桜井時代

「古事記」巻末辺りの天皇から📖[時代区分:6] 26〜32代総ざらい、その後を「日本書紀」に依拠して御陵を眺めると、以下のようになっている。・・・
[43]元明天皇奈保山東陵@奈良阪[簡素:自然丘陵] <太安万侶「古事記」献上>
[42]文武天皇…中尾山古墳@明日香平田[八角]
[41]持統天皇  (↓合葬)
[40]天武天皇檜隈大内陵@高市明日香…野口王墓40m[八角]
[39]弘文天皇長等山前陵@大津…平松亀山20m[円]
[38]天智天皇山科陵@山城…御廟野70m[八角]
[36]孝徳天皇大阪磯長陵/大坂磯長陵@磯長谷古墳群…山田上ノ山古墳30m[円]
[35/37]皇極天皇/斉明天皇越智崗上陵@高市高取車木[円]
       …牽牛子塚古墳@明日香[八角]
[34]舒明天皇押坂内陵@桜井忍阪…段ノ塚古墳105m[八角]
---↓「古事記」↑「日本書紀」---
[33]小治田宮推古天皇大野岡上
       ⇒科長大稜@磯長谷古墳群…山田高塚古墳63m[方]
[32]倉橋柴垣宮崇峻天皇倉椅岡上
       …赤坂天王山古墳50m[方]
[31]池邊宮用明天皇石寸掖上@"いわれ"
       ⇒科長中陵@磯長谷古墳群…春日向山古墳63m[方]
[30]他田宮敏達天皇川内科長@磯長谷古墳群
       …太子西山古墳93m[前方後円]
[29]師木島大宮欽明天皇n.a.
[28]檜坰廬入野宮宣化天皇n.a.
[27]勾金箸宮安閑天皇河内古市高屋村@古市古墳群◇
       …高屋築山古墳122m[前方後円]
[26]伊波禮玉穂宮継体天皇三島之藍@高槻郡家/摂津冨田
       …今城塚190m[前方後円]
《古市古墳群》河内惠賀之長江陵◇14 恵賀之裳伏岡◇15 河内之惠賀長枝陵◇19 河内多治比高鸇◇21 河内古市高屋村陵◇27📖勾金箸宮
《百舌鳥古墳群》📖難波之高津宮
《佐紀古墳群(推定4世紀〜5世紀前半)》📖志賀高穴穂宮
《巻向山〜柳本古墳群》📖纒向之日代宮
前方後円墳末期の2天皇については、情報の信頼性を考えて記載を見送ったか。天帝の命で皇位に就く訳ではないから、継承は御霊継承儀式が不可欠であるから、御陵構築とそこでの祭祀を変えるというのは、宗旨を変えるようなもの。そんな大転換が行われたことになる。御陵を知っていれば、その辺りの流れを眼で確認できた筈だが、現代では、御陵の比定さえアヤフヤ。

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㉘㉙
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㉖㉖㉛㉜㉝
㉖㉖↓「日本書紀」📖継承ルール変更と鎮護仏教化の切れ目
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㉖㉖
㉖㉖│├─┐
㉖㉖㉟㊲
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㉖㉖㊳㊵…編纂勅
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〇〇…成本

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「古事記」の一大特徴は、史書と同時期献上にもかかわらず、仏教がらみや外交関係の記載が決定的に乏しいことと、推古天皇で完としている上に、巻末辺りは皇統譜と宮名・御陵地しか記載しないこと。叙事詩的な著作の割には、この辺りの編纂方針がえらくわかりにくい。
ただ、上記の26〜43代の色分けを見るとなんとなくわかる気がしてくる。
仏教公伝とか、排仏物部v.s.崇仏蘇我の暗記教育を受けているから、この感覚は生まれにくい。仏教国化という観点でのメルクマールは「今昔物語集」が指摘するように、聖徳太子・行基・役行者。📖本邦三仏聖で、おれは推古天皇代辺りから始まる。しかし、本質的にはその前から信仰上での大きな変化が生まれているというのが「古事記」の立場だろう。その流れに合致して仏教が入って行ったと見るのである。これに合わせたのが、実は、「今昔物語集」で、王朝史部分を恣意的に欠巻にしたのだ。「古事記」を読んでピンと来たのだと思う。

その引き金となった記載は、"いわれ"の墓と改葬。

「記紀」として読むと、例えば、推古天皇御陵の改葬はそれなりの理由ありとなり、頭の中を通り過ぎて行くだけ。しかし、そんな話を、太安万侶わざわざ取り上げる道理がなかろう。しかも、"いわれ"の方は理由もわからずだ。
そうなると、28代から"葬"の扱い方が変わり始め、30年も続いた推古朝で頂点に達したことを伝えたかったのかも、との想いが浮かんで来ることになる。
もちろんのことだが、その後、揺れ戻しが発生していることも、史書を読めばよくわかる。そして、43代で直ったと考えることになろう。そして、仏教は、留学僧と渡来僧の力で国教化した訳だが、だからと言って、仏教がこの変化の源流ではなさそう、と言うのが太安万侶流見方となる。

つまり、"改葬"は、殯・葬送・葬儀という一連の法事次第に大きな変化が生まれたことの象徴として書かれていると考えることになる。
現代でも、こうした慣習は、社会の流れに対応しながら徐々に変化しており、古代も同じこと。この場合、中央朝廷の差配に従うことを示す仕組みでもあった前方後円墳制度が廃止される潮流を、"改葬"で表現したとみなすのである。
どうして"改葬"がそれにあたるかと言えば、この間の大きな変化は"殯"の扱いの筈だからだ。骨化には最低1年は必要であり、そのための施設が必要となる。しかし、そのプロセスを大幅に割愛する流れが始まったのである。推古天皇の前代王朝は極めて短期間であり、それを後押しする状態だったとも言えよう。
とりあえずの墓地と、本格的な墓地を並列的に記載することで、この変化を示唆していると読む訳だ。要衝たる"いわれ"に宮を置くのは合理的だが、本貫地でも無いのに、その近隣に墓地を置くのは偉容を示すなら別だが、一般的には嫌われる。要するに、墓制が大きく変わったのである。("殯"期間を終えて墓地埋葬儀式が挙行されると、魂が継承者に移転するとの観念があると、崩御後に権力空白が生まれ、理屈では皇位簒奪自由自在期間となってしまう。この仕組みを廃止の方向に進めたという意味もあろう。)

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