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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.5] ■■■
[247] 御陵地が示す信仰時代区分
日本史の時代区分は、王都の地名で示すことになっている。お蔭で、歴史感覚がうとい結果になるのだが、その方が社会安定に繋がるから好評なのだろう。
「古事記」も同様に、宮地で順番に整理して眺め、政治=経済と軍事観点で時代区分してみたことがある。・・・
 ■■■ 古事記の歴史観 ■■■ 
  📖[8] 桜井時代
  📖[7] 初瀬川時代
  📖[6] 摂津〜河内〜和泉時代
  📖[5] 筑紫本営時代
  📖[4] 山の辺の道時代(東国)
  📖[3] 山の辺の道時代(瀬戸海)
  📖[2] 山の辺の道時代(盆地内)
  📖[1] 葛城〜金剛〜巨勢時代
ただ、この見方だとどうしても欠けてしまうのが御陵信仰との係わり。皇位継承祭祀、国家的重大な意思決定、自然災害等の辟邪祈願は御陵で大々的に行われていた時があった訳で、様々な土着信仰に道教・儒教・仏教が被さって変遷したのだから、そこらはどう考えるべきか見るには、御陵がどのようになっているか見るのがよさそうということで、全体を俯瞰するため、再度ザッと整理してみることにした。

ただ、個〃の比定地は、どう考えても古墳とは思えなかったり、御陵の仕様とはおもえなかったり、記載とは異なる地を選んであったりと、当たっている確率を云々する以前のものだらけ。仕方がないから、諸説のうちから適当に選択しているにすぎないが、全体像を見ながら考えれば、それほど大きな支障がある訳ではなさそう。
太安万侶の見方さえ掴めれば十分なのだから。
(尚、1〜9代については、比定地はあるものの、古代の古墳とは思えないとの批判も多いようだ。と言って、説得力ある他の候補が存在する訳でもない。実在の証拠が無いということで、議論もされていないのかも知れない。ただ、伝承でなく創作であるとの証拠はどこにもなく、この部分を創作と見なすなら、全編にわたりすべてがフィクションと見なさざるを得まい。にもかかわらず、正しい記述を探れるという方法論で臨むのは無理筋だろう。)

天孫の初代から見て行きたいものだが、日子穗穗手見命の御陵は高千穗山之西というだけでは形態も不明だし存在地検討はまず無理。だからこそ上巻ということだろうが。尚、東征に参加しない御子については行き先が"常世國"と示されている。📖高千穂宮(1:常世の国)
ともあれ、各天皇段の冒頭には、原則、御陵名が記載される。それだけの意味があるということだし、割愛された場合は、太安万侶のなんらかのご注意があることになろう。

と言うことで、順番に見ていこう。・・・

●初代天皇陵が明瞭に記載されているのは、国史の扱いからみて当然であろう。
国史には、他ならぬ、「古事記」編纂の詔を発した天武天皇が畝傍山東北陵@卷三で祭祀を行ったとあるのだから。(乃顯之曰。於神日本磐余彦天皇之陵奉馬及種々兵器。@卷廿八)
しかし、初代から、すでに御陵名称に食い違いがある。東北と北方尾根筋という地理的表現は、同類とは言い難いからである。太安万侶は、すでに天武天皇時点で、伝承は曖昧で、御陵守護役が長らく存在していなかったことを示唆しているといえよう。
香久山の土が祭祀に重要であったのはよく知られているが、同様に、畝火山の土も貴重であったと見るべきだと思う。前者は赤で後者は白である。おそらく、後代の御陵には、この土が入っていると思われる。(「古事記」からすれば、倭には地下世界の概念は無い筈で、時に、古墳から奇妙な米粒状の土が出土しているが、白檮の木の根元の粒状表土であろう。)産土の白の海砂に対応する、先祖返りの風葬地白土ということになろう。(焼結させると白色土器になるのではなかろうか。・・・元祖カワラケ。)土葬などなかった時代を彷彿させる観念である。
つまり、畝火一帯が、御陵や墳墓の集積地に映るが、政治的と言うよりは、山隗そのものが天孫葬儀の象徴だったということでは。東征の地での崩御であり、本貫地はココ。
↓曽我川
┼┼┼↓近鉄
┼┼┼↓R169
┼┼←衝田岡陵◇2
┼┼←畝火山北方白檮尾上陵◇1
←畝傍山 うねびごりょうまえ駅
┼┼←畝火山之真名子谷上陵◇4
┼┼←橿原神宮≒畝火之白檮原宮◆1
←畝傍山之美富登陵◇3
┼┼←深田池
──○──○←にしぐち駅 かしわらじんぐうまえ駅
┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼←剣池 剣池之中岡上◇8
┼┼┼┼┼←軽島明宮◆15
┼┼┼┼┼←法綸寺(軽寺)
├──┐←(大軽)丸山古墳◇29=軽之境岡宮◆4
┼┼←牟佐坐神社=軽之堺原宮◆8
┼┼┼←おかでら駅
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼↑檜前川
[1]神武天皇…円丘ミサンザイ(畝火山北方白檮尾上陵)
[2]綏靖天皇…円丘塚山古墳(衝田岡陵)
[3]安寧天皇…自然丘n.a.(畝傍山之美富登陵)
[4]懿徳天皇…自然丘n.a.(畝火山之真名子谷上陵)
[8]孝元天皇…Ω中山塚1〜3号墳(剣池之中岡上)  御陵観念誕生を意味する。

●畝火山近辺への拘りより、王朝統治との繋がりで御陵が設定されているように見える。しかしながら、御陵造営・維持にたいして注力していないようだから、威光発揮の発想は薄そう。
↓R24

 ←JR和歌山線ごせ駅

↓葛城川

└──────○─ ←たまで駅
└──┐
┼┼┼┼←玉手丘上陵◇6
←掖上博多山上陵◇5
┼┼┼┼←葛城掖上宮◆5
┼┼←今出 池之内
←葛城山
┼┼←小碓命(倭建命)陵
┼┼┼┼┼←国見山
┼┼←宮山古墳=葛城室之秋津嶋宮◆6
─┤∨∨∨∨∨][∨∨∨←大口峠
←巨勢山

←金剛山

[5]孝昭天皇…自然丘(掖上博多山上陵)
[6]孝安天皇…円丘(玉手丘上)

●片岡で比定地を決めるのは難しかろう。地名的には王寺から香芝までとかなり広いからだ。しかし、そう思うのは、前方後円墳造営感覚で考えるからだろう。巨大な丘全体を御陵としたと見れば、この比定地は、王権確立の一歩たる威光を示すモニュメントとして、それなりの意味があろう。
┼┼┼↓近鉄生駒線
┼┼┼
┼┼─────┐
┼┼┼┼┼┼┼
┼┼└─○──┐←おうじ駅
┌────○──┐←おうじ駅
┌┘┼┼┼┼┼└──←大和川
┼┼┼┼┼┼└──←JR大和路線
┼┼┼┼┼┼└──←近鉄田原本線
┼┼┼┼←片岡馬坂上陵◇7
┌┘┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼↑JR和歌山線
[7]孝霊天皇…自然丘(片岡馬坂上)

●比定地としての妥当性はわからぬが、流れが見て取れる。
7代:宮から離れた目立つ大きな自然丘⇒8代:畝火の地の造営御陵⇒9代:宮側の目立つ造営御陵⇒10代:山辺王朝の御陵、となっているからだ。
↓JRなら駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼卍 ←東大寺
─│──○ ←近鉄 なら駅
────────────────
┼┼┼┼卍 ←念仏寺山/伊邪河之坂上陵◇9 興福寺
┼┼┼┼┼┌■─■ ←猿沢池 荒池
┼┼┼┌┘←率川神社=春日之伊邪河宮◆9
┼┼┼┼
──────┘ ←率川

─┴───────○── ←JRきょうばて駅
[9]開化天皇…Ω念仏寺山(伊邪河之坂上)

●誰が見ても、山邊道での残存大型古墳は行燈山と渋谷向山である。川筋も瀬戸海から大和川を上れば三輪山より目立つ。それぞれどちらの天皇かは、なんとも言い難しであろう。
┼┼↓桜井線
┼┼↓R
┼┼┼┼ ←やなぎもと駅
┼┼ ←行燈山古墳=山邊道勾之岡上◇10
┼┼┼┼
┼┼┼┼
┼┼┼┼
┼┼┼┼
┼┼ ←渋谷向山古墳=山邊之道上◇12
┼┼┼┼ ←巻向山
┼┼ ←まきむく駅 磯城之玉垣宮◆11
┼┼└┐ ←穴師坐兵主神社
┌──┘ ←纒向之日代宮◆12
┼┼┼
│ ←箸墓古墳
┌────── ←巻向川
┼┼∨∨∨


 ←狭井神社
 ←大神神社 三輪山
 ←みわ駅
 ←御県神社=師木水垣宮◆10

┼┼ΛΛΛΛΛ
└─────────────── ←初瀬川
[10]崇神天皇…Ω行燈山古墳(山邊道勾之岡上)
[12]景行天皇…Ω渋谷向山古墳(山邊之道上)
[--]倭建命…Ω能褒野@伊勢国⇒白鳥陵
●10〜12代はいわば三輪王朝とでいうべき状況だと思うが、11代の御陵は山邊之道ではない。菅原の地は、後の平城京北側墓域である。このころから古墳は尽きないが、大王クラスということでの選定だろう。
13代もそうだが、沙紀もおそらく古墳だらけだった筈で、比定基準は"立派さ"以外になかろうから、妥当性どころの話ではなかろう。
どうしてそのような地で天皇の威光を示す必要があるのかはなはだわかりにくい。・・・10代と12代が飛び抜けていることを示す必要があったということだろうか。
[11]垂仁天皇…Ω宝来山古墳(菅原之御立野中陵)
[妃(11)]妃…Ω佐紀陵山古墳(沙紀之寺間陵)
[13]成務天皇…Ω佐紀石塚山古墳(沙紀之多他那美陵)
[皇后(16)]皇后…Ωヒシアゲ古墳(磐之媛陵)

●14代は遠征先の九州で崩御。奈良盆地でなく、湾岸域に御陵設定。ともあれ、河内ということ。
以後、御陵は、奈良盆地を避けるようになる。湾岸の交通と開拓・治水に係わる大土木工事の時代に突入したことを意味しているのだろう。
-----古市古墳群----- 📖勾金箸宮
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←津堂城山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←喜志駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼   =河内多治比高◇21
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←島泉丸山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←市ノ山古墳
─○──○────○──┤   =河内之惠賀長枝陵◇19
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←仲津山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←古室山古墳 道明寺駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←岡ミサンザイ古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼   =河内惠賀之長江陵◇14
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←誉田御廟山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼   =恵賀之裳伏岡◇15
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←墓山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼○─ ←古市駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←軽里大塚古墳=白鳥陵◇
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ←高屋築山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼=河内古市高屋村陵◇27
↑高鷲駅
┼┼┼┼↑藤井寺駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼↑土師ノ里駅
[--]倭建命…Ω白鳥陵(軽里大塚古墳)
[14]仲哀天皇…Ω岡ミサンザイ古墳(河内惠賀之長江陵)
[皇后(14)]神功皇后…Ω五社神古墳(狭城楯列陵)
[15]応神天皇…Ω誉田御廟山古墳(恵賀之裳伏岡)
[19]允恭天皇…Ω市ノ山古墳(河内之惠賀長枝陵)
[21]雄略天皇…Ω島泉丸山古墳(河内多治比高鸇)
[27]安閑天皇…Ω高屋築山古墳(河内古市高屋村陵)
●毛受陵は3つ。名前から所在地の区別はできかねるので、個別の比定があっている保証はない。しかし、1つの御陵だけ飛び抜けた威容であり、「古事記」の扱いからみて、これが16代御陵と考えるのは当たり前と言えよう。
------百舌鳥古墳群----- 📖多治比柴垣宮
│境東駅@南海高野線
┌─┐┼┼┼┼┼
│⊥│┼┼┼┼┼ ←田出井山古墳=毛受野陵◇18
└─┘┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼│三国ケ丘駅
└─────────●─┐
┼┼┼┼┼┌───┐└┐┼┼┼┼中百舌駅
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼└──────○┐
┼┼┼┼┼ ←大仙陵/大山古墳=毛受耳原陵◇16
┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼└───┘
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼○百舌鳥駅@JR阪和線
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┌┘
┼┼┼┼┼┼┼┼┌┘┼┼ ←御廟山古墳
┼┼┼┼┼┼┼┌┘
┌─┐┼┼┼┌┘ ←いたすけ古墳
│⊥│┼┼┌┘ ←上石津ミサンザイ古墳=毛受陵◇17
└─┘○┘
┼┼┼┌┘上野芝駅
┼┼┌┘┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼↓土師ニサンザイ古墳
┌┘┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┌─┐
┌┘┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼│⊥│
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼└─┘
[16]仁徳天皇…Ω大仙陵/大山古墳(毛受耳原陵)
[17]履中天皇…Ω上石津ミサンザイ古墳(毛受陵)
[18]反正天皇…Ω田出井山古墳(毛受野陵)
●奈良盆地の菅原ではなかろう。戻る必然性が全く無いのだから。
------菅原-----
[20]安康天皇…Ωn.a.(菅原伏見岡)
●記載なくとも、ともあれ河内国と見ておいた方がよさそうだ。
------「古事記」不記載-----
[22]清寧天皇…Ω白髪山古墳@羽曳野西浦<古市古墳群>
        【諸陵式】河内坂門原陵@河内国古市郡

[24]仁賢天皇…Ω野中ボケ山古墳@藤井寺青山<古市古墳群>
        【諸陵式】埴生坂本陵@河内国丹比郡

●"片岡"を河内から離れた以下の地名と見なすのはかなり無理がありそうに思ってしまるが。河内から外されたことを意味しているということか。このような場所に御陵を設置する理由があるとも思えず、とりあえず受け入れてくれる地がココだったということかも知れない。皇統断絶寸前で、その原因をつくった天皇の御陵を積極的に護持する後継天皇がいるとも思えないし。23代も連れ子に暗殺された天皇であり、両者は離れた地に追いやられたと考えることもできよう。
ただ、それが以下に示す比定地であるとも思えないが。
------片岡之石杯岡----- 📖長谷之列木宮
─○─┐王子駅
 ←片岡馬坂上陵◇7

○畠田駅


○志都美駅 ←片岡之石坏陵◇25


 ←片岡石坏岡上陵◇23


○香芝駅

↑JR和歌山線
↑R168
[23]顕宗天皇…Ω(片岡石坏岡上)
[25]武烈天皇…Ω(片岡之石坏陵)
●26代の比定地は間違いなし。言うまでもないが、証拠云々ではなく、場所の意味を考えてのこと。  📖 阿蘇ピンク石への拘り
------淀川系河口----- 📖伊波禮玉穂宮
┼┼┼ ←今城塚古墳=三島之藍御陵◇26
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼女瀬川(⇒芥川⇒淀川@唐崎)
─○──────←摂津冨田駅@JR東海道本線
────────←阪急京都線
[26]継体天皇…Ω今城塚古墳(三島之藍御陵)
[26皇后]手白髪郎女(24皇女)…Ω西山塚古墳@天理萱生(大和古墳群)
●太安万侶は奈良盆地内への回帰が始まった時点がはっきりしていないと見なしたようで、28・29代御陵は不記載である。この時代は蘇我系も見ておく必要があろう。📖蘇我稲目の3比賣に注目せよと強大な石舞台古墳が「古事記」成立時にどうなっていたかは定かではないが、飛鳥の朝廷に勤めていた太安万侶はあえてそのような状況を無視しているのだから。
------「古事記」不記載-----
[28]宣化天皇…Ω屋見三才古墳@橿原鳥屋
        【諸陵式】身狭桃花鳥坂上陵@大和国高市郡

[蘇我]馬子石舞台古墳@島庄(飛鳥桃原)
[蘇我]稲目都塚古墳/金鳥塚
[蘇我]蝦夷+入鹿[双墓]水泥塚穴古墳@御所古瀬
[29]欽明天皇…Ω梅山古墳@明日香
        【諸陵式】檜隈坂合陵@大和国高市郡(⇒Ω見瀬丸山古墳@橿原)

●"王陵の谷"は女系の蘇我系の集合墓所に映るが、養育時に鍛えられた場所だった可能性もあろう。ただ、儒教の男系宗族墓所観に倣っている印象も与えるので、政治的メッセージ性がありそうだ。と言っても、財政負担が大きすぎる前方後円墳総勢を止める陵墓薄層化をすれば、新管理システム導入(御陵戸⇒仏寺)は不可欠であるから、墓所がまとまるのは必然でもあろう。所謂、"物部 v.s. 蘇我"の抗争がどこまで、宗教とからむのかは定かではないが、本文で触れないのだから朝廷に於ける単なる派遣争いと見るのが自然であろう。ただ、30代は前方後円墳だが、31〜31代は方墳と見て間違いないから、そこらの方針転換上の対立は激しかったろう。儒教国家たる中華帝国的運営だったとすれば、血みどろの戦いはつきもの。
------磯長谷古墳群@南河内 太子----- 📖小治田宮
[蘇我]倉山田石川麻呂墳丘陀寺古墳@山田 蘇我新宗家
↓上ノ太子駅
└──┐┼┼┼┼┌┘
─○─────┘近鉄南大阪線
┼┼┼└┐
┼┼┼┼└┐
┼┼┼┼┼└┐R166:竹内街道
┼┼┼┼└┐ ←山田上ノ山古墳(円)◇36
┼┼┼┼┼└────────
┼┼┼┼┼┼┼┼ ←小野妹子墓
┼┼┼┼┼┼↑山田高塚古墳(方)=科長大稜◇33
┼┼┼┼↑春日向山古墳(方)=科長中稜◇31
↑太子西山古墳(前方後円)=川内科長◇30
[30]敏達天皇…Ω太子西山古墳(川内 科長) 前方後円墳残存
[31]用明天皇…春日向山古墳(科長中稜)
   🛑…📖太安万侶的道教観を探る
[32]崇峻天皇…□/🛑赤坂天王山古墳(倉梯岡陵)@桜井倉橋
[33]推古天皇(在位:592-628年)…山田高塚古墳(河内 科長大稜)
●「古事記」本文最終段が33代になるのは、この流れからみると必然である。32代は例外的であるものの、突然の🛑八角墳登用であり、の時期特有の、道教傾倒を示しているように思える。男系宗族墓所とか、蘇我の本貫地のイメージを払拭すべく、御陵の地が設定されたようにも見える。
------各天皇独自選定宮地-----
[34]舒明天皇…🛑段ノ塚古墳@桜井
 <639年百済大寺造営詔>
[35]皇極天皇(在位:642-645年)
   /[37]斉明天皇(在位:655-661年)…🛑岩屋山古墳 or 🛑牽牛子塚古墳@明日香
[36]孝徳天皇…大阪磯長陵@河内太子 太子域
 <646年薄葬令>
[38]天智天皇…🛑御廟野古墳@山科
[39]弘文天皇…長等山前陵@大津御陵
[40]天武天皇…🛑野口王墓古墳(合葬)@明日香
[41]持統天皇(在位:690-697年)…🛑野口王墓古墳(合葬)🔥 火葬
     草壁皇子…🛑束明神古墳@真弓丘
 <692年令計天下諸寺(545寺)>
[42]文武🛑中尾山古墳@明日香🔥
   (夫人藤原宮子[藤原不比等長女])…佐保山西陵
 <701年大宝律令完成>
 <704年太安万侶従五位下叙爵>
佐保山/奈保山という王宮守的後背地を墓域に設定。
------平城京/奈良-----
┼┼↓秋篠川
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼○ ←JR平城山駅
┼┼┌┘┼┼┼┼┼┼┼│ ←[北西側]
○──┘┼┼┼┼┼┼┼│ ←[北側]
├─┼┼┼┼┼┼┼┼│ ←[東側]a
⊥⊥⊥┼┼┼┼┼│ ←[西側]a,b,c
┼┼┼┼┼⊥⊥│ ←[西側]d [東側]b,c
┼┼┼┼┼┼┼┼┼└ ←[南側]a
○─┐┼┼┼┼┼┼┼┼ ←[南側]b
└┐┼┼┼平城京跡↑R24
_↑平城駅 大和西大寺駅
___---- 北西側 ---
____五社神古墳 =狹城楯列陵[14]皇后
___--- 北側 ---
____塩塚古墳
___--- 西側 ---
____a 佐紀石塚山古墳 =沙紀之多他那美陵◇13
____b 佐紀陵山古墳 =沙紀之寺間陵[11]天皇妃日葉酢媛命
____c 佐紀瓢箪山古墳
____d 佐紀高塚古墳
___--- 東側 ---
____a ヒシアゲ古墳 =[16]皇后磐之媛陵
____b 小那辺古墳
____c 宇和奈辺古墳
___--- 南側 ---
____a 市庭古墳◇51
____b 神明野古墳
___--- 遠東方 ---
____奈保山南陵◇45
___--- 遠南方孤立(大和西大寺駅南の尼ケ辻駅) ---
____宝来山古墳 =菅原之御立野中陵◇11
[43]元明天皇(在位:707-715年)…奈保山東陵@奈良阪🔥
 <712年「古事記」上奏> 
[44]元正天皇(在位:715-724年)…奈保山西陵@奈良阪🔥
 <723年太安万侶没>
[45]聖武天皇…法蓮北畑古墳(佐保山南陵)@奈良法蓮
   (光明皇后)…佐保山東陵
[46]孝謙天皇(在位:749-758年)
    /[48]称徳天皇(在位:764-770年)…Ω佐紀高塚古墳(高野陵)@奈良山陵
[47]淳仁天皇…淡路陵@南あわじ賀集 <流刑地>
[49]光仁天皇…田原東陵@奈良日笠
仏寺による王都墓域管理体制の確立。
------平安京/京都-----
[50]桓武天皇…柏原陵(桃山陵墓地内<平安京/京都>)
[51〜122(除外:47,75,81,83,96,97)]
遷都に伴う脱既存仏教の地の設定。
------武蔵------

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