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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.7] ■■■
[614]歌会創始者は誰か
「萬葉集」の冒頭は21代天皇御製。
①泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 御製 [<大>泊瀬稚武天皇雄略天皇]
続く所収歌は急に跳んで34代天皇御製。
②高市岡本宮御宇天皇代
 天皇登香具山望國之時御製 [息長足日廣額天皇(舒明天皇)]

この冒頭歌が、格別な題材であるとか、作風が素晴らしいという印象は無いのに、代表として選ばれた理由はよくわからない。
しかし、古事記ではこの段に9首も収録されているから歌謡の帝王と見なされたのだろうと推定した。📖「萬葉集」冒頭歌選定は「古事記」の影響
㉓9首 ㉑14首 軽皇子・軽大郎女12首 ⑰3首 ⑯23首
 ⑮14首 倭建命15首 ⑩1首 ①13首 ㊤9首

その後、つらつら考えを巡らしたお蔭で、ようやく自分なりの結論にたどり着いたので、書いておくことにした。

そのポイントは単純なことで、「古事記」の歌と、「萬葉集」の歌は似て非なるものというだけのこと。
それについては気付いたことを色々と記載してきたので、繰り返すことは避けたいが、要は、前者は口誦であって、後者は著述ということ。つまり、この間には深い溝があり、両者を連続的に取り扱っては"絶対に"駄目なのだ。

現代感覚で鑑賞するとしたら、「萬葉集」は歌人の作品集として扱えるが。「古事記」はそうはいかないからだ。
今になってようやくわかったが、「萬葉集」の冒頭歌は正しく御製であるが、「古事記」に収録されている天皇の歌を"御製"と安直に書いてはいけないということ。ゴーストライターが居るということではなく、歌を詠んだと記述しているからといって、それは必ずしも当該歌の作者とは限らないという意味である。
極言すれば、特定の戦場での状況を詠んだ歌であると、その場でしか作れない歌と思ってしまうが、本当にそうなのかチェックが必要ということ。

歌垣の歌謡で考えればわかるが、ベースとなるのは伝承の言い回しで、これにアドリブを付け加えるのが普通。場合によっては、過去の言い回しを100%利用してもかまわない。それがピタッと嵌っていれば聴衆の拍手喝采モノになる。
「古事記」に於ける歌とは、あくまでも叙事詩の一部であって独立している訳ではないから、天皇の歌とされているからと言って、当該天皇がその場に合うように作ったのではなく、すでに遍く知られている歌を詠んだのかも知れない。その方が"しみじみ"感を与えるのは間違いなく、創作よりそのようないわば機転のような知恵こそが貴ばれてもおかしくなかろう。

「古事記」は話語たる倭語の口誦叙事詩を文字表記しただけなので、<歌>とはこのような概念で通用するが、「萬葉集」はそういう訳にはいかない。
それぞれの歌人が文字で書き下ろした"文芸"作品集だからだ。

つまり、「古事記」⇒「萬葉集」には、大きな飛躍が必要ということになる。

それはどのようにして実現したか考えると、なんのことはない。「古事記」の21代天皇段での歌の表現がその道を切り拓いていたのである。

[歌100]【三重の采女】粗相で殺される寸前
    纏向の日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の日翔ける宮 竹の根の根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百によし斎の宮 真木さく日の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る槻が枝は 上枝は天を覆へり 中枝は 吾妻を覆へり 下枝は鄙を覆へり 上枝の枝の裏葉は 中枝に 落ち触らばへ 中枝の枝の 下つ枝に落ち触らばへ 下枝の 枝の裏葉は あり衣の三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ち足沾ひ 水こをろこをろに 来しも 綾に恐し 高光る 日の皇子 事の 語り事も 此をば
<纏向の日代の宮>から始まるが、今上天皇は長谷朝倉宮で、この宮は12代。つまり、この寿ぎはその頃の歌謡での詞を持って来たことになろう。だからこそ、受けた。(枕詞なる、現代人には訳のわからぬ用語を使う理由がここらにある。原体験共有の嬉しさ表現と考えることもできよう。)
ここで、重要なのは、この歌の内容そのものではない。この歌が独立しているのではなく、繋がることで、<歌>の宴が成り立っていることにある。明らかに、この天皇の企画。
[歌101]【大后】三重の采女に仕切り直しを勧める
[歌102]【天皇】天語歌酒宴では享楽三昧でよし、と

このことは、21代天皇が歌会創始者であるとの記載とほぼ同義。
歌集の冒頭の歌人を選ぶとしたら、この天皇以外にあり得ないのではなかろうか。

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