■■■ 鳥類/哺乳類等の分類 2013.5.29 ■■■

   動物漢字でセンスを磨く方法

動物分類と漢字表記を並べて眺めると結構面白い。好事家的な興味ではなく、人々がどのような「概念」を抱いてきたのかが見えてくるからだ。異なる「ものの見方」に触れることになる。それは刺激を頂戴する点で、優れた方法の一つであることはは間違いない。

小生は、遠からず、自然淘汰的進化の発想を越える科学思想が生み出されると見ている。分子生物学の発展が著しいからだ。但し、今の、分析的手法を駆使した家系図を作りから生まれるとは思えない。分岐が「何故」発生したか、なにも示唆しない「成果」だらけだから。なかには、形態分類や、生態分類とのつながりがないものまで。要するに、新しい「ものの見方」が提起できていないということ。これでは、とうてい時代を切り拓く端緒にはなり得まい。
ただ、こうした分類データが大量に集積されてくると、他の方法論の見方も取り入れると、視野は格段に広がる。高みから全体を俯瞰的に見下ろせる人がそろそろ生まれる頃。もう、その一歩手前まで来ているのではなかろうか。「気付き」さえあれば、一気呵成の進歩すると見ているのだがどんなものか。

しかし、それは、口で言うほど簡単なことではない。
新しい「ものの見方」を追求するべき頭を働かせると、たいていはトンデモ論的思いつきに終始しがちだからだ。残念ながら、下手な鉄砲も数多く撃てば当たることはあり得ない。これが現実。
新しい発想を求めるなら、それなりの仕掛けが必要で、それを自らつくるべきだろう。なんといっても、先ずは、発想の糸口の設定である。刺激が新しい発想を生み出すのはよく知られた経験則であり、それに従ってひとつ頭を働かせてみたらどうか。もしも、なんとなくえも、ピカリと光る見方がありそうに思ったら、そこから徹底的に考え抜けば道が拓けることが多いもの。試して損はないと思うが。
こんな作業手順を踏んでいると言った方がわかり易いか。
  ・先ずは、お仕着せの全体像とは無縁な感覚を呼び起こす。
  ・その見方から、異なる全体像を作ってみる。
  ・この全体像のなかに、常識を当てはめてみる。
  ・ピンとこなかったら捨て、違う全体像を考案し続ける。
  ・面白いものが見つかったら、徹底的に磨き込む。
  ・駄目そうなら、その理由を書いて保存し、一から出直し。
実に、かったるい作業に映るが、これが楽しくない人は新しい「ものの見方」にもともと興味がないというだけのこと。
要するに、センスを磨いているだけのこと。こんな作業に、本気で取り組めば、結構成果はあがるものだが、懐疑的だったり、面白くないと感じる人が多いので滅多に行われていない。正確に言うと、行われないのではなく、形だけの真似事をしてみてすぐに諦めてしまうということだが。・・・ここでの「本気」とは、徹底した「集中力」を意味するが、それができないのだ。成果が生まれなくて当たり前だが、当人はそう思わないのである。結果が確実に生まれる分析的仕事にしか「集中力」を発揮できない体質になってしまっているからだ。
それはそれ、新潮流普及には大いなる貢献をしてくれるので有難い存在だが、そうした方々ばかりではこまったもの。

まあ、誰でも、マインドセットはあるもので、それを壊すのはそう簡単ではない。突拍子もない話をつきつけられても、ガツンと一発どころか、笑い話として耳に入りかねない訳だから、刺激を求めるといっても滅茶苦茶に設定したのでは逆効果になる。刺激になるのは、ある程度の馴染みがあり、親近感が湧く範囲での事象。全くの新規ではないが、よくよく考えれば自分が考えているのとは随分違う見方だナと感じるようなものが望ましい。そこから、違った見方で全体像を描くことができるから、アー、こんな世界もあり得るのだと気付く訳である。

ということで、漢字表記を眺めるだけでも、動物のありようを色々と考えることができるのではないかという話をしたい。ひょっとすると、そこに進化の大枠を示唆するヒントがあるかもと考えて取り組むのである。
もしかすると、馬鹿馬鹿しくてそんなことできるか、と感じるかも。言うまでもないが、その可能性もある。従って、そう思ったら止めるにしかず。時間の無駄になるからだ。違う糸口を探るしかない。それだけのこと。

それでは、何故、漢字表記を眺めて意味がありそうと考えるのか。それは、イメージ表現の文字というだけでなく、その根底に「ものの見方」に関係する思想があると思われるから。特に、ヒトも生物の一種にすぎず、生命体はすべて同じ価値との哲学に洗われた地域の言語である点が大きい。現代の分子生物学と一脈通じるところがあるからだ。

実際に漢字表記を見てみると、その分類感覚の鋭さには脱帽。

目立つのは、「魚」、「鳥」、「獣」の3つ。いずれも体躯が大きいものを優位と見なす動物のグループと言えよう。生態的には、それぞれ、水中棲、空中棲 陸上棲か。このことは、土中棲や樹上棲といった分類は些細なものと見なしているとも言える。そして、形態的には、鱗、羽(非翅)、毛で分類される。表皮の仕様で分けるのである。
但し、「毛」動物に、「獣」を示す漢字部首が使われている訳ではない。細分類があり、それをまとめたカテゴリーが「獣」。4つの群に分かれていると見てよいだろう。
  ・角で闘争する、「牛」(犀も含む)、「羊」、「鹿」
  ・足先を使って疾走する、「馬」
  ・牙で獲物を喰らう、虎、豹、狼と熊 (馴化された豚もこのグループ)
  ・高度な歯で雑食する、「鼠」

これ以外に、表皮が「殻」の動物群がある。ところが、それを表すべき部首は無い。亀のように、特別扱いになるか、大型だと鰐のように「魚」となる。鰐の表皮は硬くて殻に見えるが鱗の一種ということになるのだろうか。
それでは、「殻」動物はどういう表記になるかといえば、「蟲」である。「殻」というコンセプトではなく、小さな動物という意味である。秀逸。「殻」は表層的な形質にすぎないとしているからだ。
「魚」、「鳥」、「獣」は大きくなれる動物で、大きいものこそ覇者というルールが厳然として存在するが、「蟲」には通用しないということを見抜いている。「殻」を持てば、体躯を小さく保つことで優位を保つことも可能なのである。「蟲」の世界では体躯の大きさは優劣への影響は小さいということになる。
この「殻」的「蟲」生物だが、「殻」が明瞭な節足動物と甲殻類だけでなく、「鱗」的に見える爬虫類や外殻を欠く両生類、はては軟体動物まで含まれる。

ここから、分類の全体像がどこまで読み取れるかだ。
慧眼だと思うのは、形態分類として表皮に注目しているが、生態分類と絡み合っている点。しかも、表皮の概念はかなり広いのである。皮膚だけでなく、感覚器の目や触角、移動用器官の鰭/羽/足/脚を一括して眺めていると見てよいのではないか。生物は皆同じという観点で眺めれば、体の器官としては全く違うものに映っても、すべては同根の表皮であるとの見方になる。器官が色々あるといっても、それは表皮が多様化しただけということになる。なかなか凄い思想ではないか。
ただ、多様化のルールには2種類あり、「魚」、「鳥」、「獣」の大きくなりたい族と、「蟲」の大きくなる必要なし族では異なることになる。あとは、生態に応じて、表皮の形態が変化しているだけの話。

この発想だと、節足動物という概念は生まれようがない。節があり、その節毎に対となる足がある動物というなら、「獣」も当てはまると言わざるを得ないからだ。頭節、首節、胸節、腹節、尻節があると考えてもなんらおかしくなかろう。足が付く節もあれは、無い節もあるというだけの話。
「魚」にしても、鰓口があり、それは節にも見える。ここが重要なところ。
結局のところ、「節」とは、先頭たる口から順にユニットが続いているという概念とすれば、魚にも節はあるゾとになる。「節」と呼ぶユニット毎に、どの動物も多様な形態をとっているだけにすぎないとなる。実際、どの動物を見ても先頭は口であり、そこは餌獲得(口)節。その隣に感覚器(顔)節、流入出調整(喉)節、連結(首)節、と順番に繋がっている。この認識ができるからこそ、「頭」部が存在すると感じる訳である。実に単純明快な構造ではあるまいか。

こうした見方で眺めれば、ヒトも昆虫も同じに見えておかしくない。プラナリア(渦虫)やタコ(蛸)も同じようなユニット構造があるようだし。要するに、こうしたユニット構造で大きくなれない蟲のなかで、外皮の足が矢鱈目だつのが節足動物と呼ばれているだけの話。漢字表記では、足よりは、翅に注目している。昆虫とは翅蟲のことだからだ。

これを踏まえて、進化をどう取り入れるか考えると、ごく自然な「ものの見方」ができる筈。それが正しいかどうかは別として。・・・
カテゴリー別に各ユニットの変化の範囲は自ずと制限がかかっていることは間違いなかろう。そして、隣接ユニットと齟齬をきたしてもこまる。しかし、そうでなければ、生活に合わせていかようにも変化できるということになる。見かけがいかに大きく違っていようが、内実はなんら変わらないことになる。
産業界の用語を使えば、モジュール構造にして、マスカスタマイゼーションを実現しただけ。豊富なアクセサリーを用意すれば、特別仕様に見えるが、込み入った対応をしている訳ではない。

こう考えると、「獲得形質」という概念は極めて空疎なものとなってしまうかも。環境変化に応じて、それぞれのユニットはもともとある程度変化できるようになっているからだ。遺伝すると見てもかまわないし、全く遺伝しないと見てもかまわないということ。
しかし、進化とは、そんな話ではないだろう。こうした、変化可能な設定範囲内で対処できない時は、大幅なモデルチャンジが必要になる。ユニットの改廃・統合・新設に踏み込むしかない。一端、そのスイッチが入ったら、全体ルールやユニット間のバランスの見直しが始まることになる。いわば、いくつかの形質の変化がバンドルされた形で一斉に発生する訳である。と言っても、今までのユニット構成を捨ててしまう訳ではないから、進化後の生物は、進化前の生物の姿は必ず残る。だからこそ、形質変化を調べれは、なにが起きたかわかるのである。当然ながら、それは生態上の変化と並行している筈で、よくよく考えれば、どうしてそんな進化が発生したかの理由もわかることになる。それは今までの学問がしっかりと対応していた領域でもある。
しかし、肝心なこの進化の機構が皆目わかっていないのである。当たるも八卦の、ランダム型突然変異によって、こんなことが可能だというドグマが未だに通用するのだから驚きである。

そうそう、ここで、「節」というユニットの話をしたが、それはあくまでも漢字表現と現在の分類用語を対比して、想像してみただけ。この見方は、動物の外側を重視している思想そのもの。しかし、動物には内側にも重要な構造が存在している。そこも考えておく必要があろう。

そうなると、イの一番に、物理的に体躯を支える屋台骨を考えてしまうかも。それは、脊椎動物を真っ先に思い浮かべるからでもあろう。漢字表現発想からすると、こうした見方は偏っていることになるので、ご注意あれ。硬い骨からなる脊椎だろうが、ゼリー状脊索だろうが、それが体躯を支える重要なものであるのは間違いないが、それは本質的なものではない可能性が高い。機能の本質は体躯支持でなく、神経系の保護と見る方が妥当だと思えるからだ。なにかを活用して、神経系の付随器官を作り、それをさらに体躯の支持体として利用したという見方にならざるを得ないのだ。
そう考えれば、節足動物も、外殻が体躯を支えていることに焦点をあてすぎてはいけないことになる。非脊椎/非脊索動物という概念が成り立たないからでもある。そうなれば、答えは自明。脊椎/脊索動物のように、背側に神経系を配置する必要が無い動物群ということになろう。お気づきになると思うが、それこそが「蟲」の所以。体躯は小さいが、そのお陰で刺激にはいち早く反応でき、敏捷に動こうという動物なのだから。神経系をわざわざ背側にもってきて、知覚や運動を司る腹側の表皮系との間に、ゴタゴタした代謝系を入れるなど、あり得まい。

表皮系がユニット構造になっているとすれば、神経系、代謝系、生殖系も同じようなものだろう。外側の筒の外皮と、内側の筒の外皮の違いはあるものの。

以上、漢字表記を眺めて感じたことをダラダラ述べたにすぎない。そんなつまらぬものからでも、ヒントは得られるという見本を示そうと試みただけ。ただ、浅薄な知識しかない素人が思いつき的に考えた話でしかなく、間違った認識も多々あろう。知識豊富な方が読めば不快な文章以外のなにものでもないかも。それでもお読みいただいたことに深謝。

(追記) 言うまでもないが、ヒトの胚盤胞が細胞分裂すると、脊索の周りの細胞群と、その上下の内部空間がある細胞群の3つに分化していく。外胚葉は皮膚・脳や感覚器官と神経・乳腺に、中胚葉は血液と心臓・筋肉や骨・性腺や泌尿器、内胚葉は内臓の呼吸器・消化器などの代謝器官になる。発生の初期段階ではユニット構造があるようにはとうてい思えない。進化と発生は次元が違うとはいえ。

  ■■■分類の話■■■
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