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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.11] ■■■
[歌の意味16]歌と地名譚
ほとんどの地名はローカルでのみ通用していたものが、状況が変わって全国的に知られるようになるものだと思うが、大戦乱やクーデターで死者が発生すると古戦場として地名が生まれる可能性が高かろう。
人々の記憶に残るような事件であり、当然ながら、ハイライトシーンとして関係者の歌が残ってしかるべきと思っていたが、太安万侶はそのような考え方をしていないようだ。📖「古事記」収録地名譚は面白い

このことは、心に残る戦乱としては、3件しかないということになろう。
 ①宇陀での大伴・久米による大斬殺
 ②倭建命の東征
 ③[兄]大山守命の進攻を[弟:皇嗣]宇遅能和紀郎子が溺死させて阻止

おそらく、この手の話より、速須佐之男命と~倭伊波禮毘古命の婚姻譚を重視したかったのだろう。特に後者は、太安万侶がわざわざ解説として山由理草の話を組み込んであり、どうしてもなんらかの地名譚を残したかったとの気迫を感じさせるものに仕上がっている。
下巻になると、現代文芸と大して変わらないセンスで地名譚を収録しているように映る。・・・【御津前】【近飛鳥/遠飛鳥】【阿岐豆野】【金鉏岡】【志米須】
特に、【御津前】はいかにも宮から見える港という印象の名称だし、歌から名前を導いたりもしている。【近飛鳥/遠飛鳥】に至ってはほぼ駄洒落に近いし。


<@出雲>…7首
≪速須佐之男命≫
到坐"須賀"地 而 詔之 吾來此地 我御心 <須賀須賀斯> 而 其地 作宮坐
故 其地者 於今云【須賀】
[__1]📖八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
㊥①
≪~倭伊波禮毘古命≫ [無歌]
"登美能那賀須泥毘古"興軍待向以戰 爾 取所入<御船之楯> 而 下立
故 號其地謂【楯津】 於今者云【日下之蓼津】
---
≪五瀬命≫ [無歌]
背負日以撃期 而 自南方廻幸之時 到血沼海洗其<御手之血>
故 謂【血沼海】
  :
從其地廻幸 到紀國男之水門 而 詔 負賤奴之手乎死 為<男建> 而 崩
故 號其水門謂【男水門】
---
≪大伴連等之祖道臣命+久米直等之祖大久米命:二人≫
召兄<宇迦>斯罵詈云・・・矢刺 而 追入之時 乃 己所作押見打而死 爾即控出<斬散>
故 其地謂【宇陀之血原】
[_10]📖宇陀の高城に鷸羂張る・・・"疊々" しや越や此は威のごふぞ"疊々" しや越や此は嘲咲らば
---
≪__(解説)@伊須氣余理比賣命之家≫
於是其伊須氣余理比賣命之家 在<狹井河>之上
天皇幸行其伊須氣余理比賣之許 一宿御寢坐也
[其河謂佐韋河由者 於其河邊山由理草多在
故 取其山由理草之名號
【佐韋河】也 山由理草之本名云"佐韋"也]
[_20]📖葦原の穢しき小屋に菅畳いやさや敷きて吾が二人寝し
㊥⑩
≪活玉依毘賣≫ [無歌]
是以其父母欲知其人 誨其女曰 以赤土散床前以"閇蘇"紡麻貫針刺其衣襴 故 如教而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通 而 出 唯<遺麻者三勾耳> 爾 即知自鉤穴出之状 而 從糸尋行者 至美和山而留~社 故 知其~子
故 因其麻之三勾遺 而 名其地謂【美和】
---
≪大毘古命+[副]丸邇臣之祖日子國夫玖命 v.s. 天皇庶兄 建波邇安王≫ [無歌]
於是到山代之和訶羅河時 其建波邇安王興軍待遮 各中挾河 而 <對立相挑>
故 號其地謂【伊杼美】 [今謂【伊豆美】也]
≪建波邇安王軍勢≫ [無歌]
即 射建波爾安王而死 故 其軍悉破而逃散
爾 追迫其逃軍到久須婆之度時 皆被迫窘 而 <屎出懸於褌>

故 號其地謂【屎褌】 [今者謂【久須婆】]
  :
又 遮其逃軍 以斬者<如鵜浮於河>
故 號其河謂【鵜河】
≪大毘古命軍勢≫ [無歌]
亦 <斬波布理其軍士>
故 號其地謂【波布理曾能】
≪建沼河別+[父]大毘古命≫ [無歌]
如此平訖 參上覆奏 故 大毘古命者隨先命 而 罷行高志國
爾 自東方所遣建沼河別與其父大毘古<共往遇于相津>

故 其地謂【相津】
㊥⑪
≪山邊之大鶙≫ [無歌]
遂追到高志國而於和那美之水門 <張網取其鳥> 而 持上獻
故 號其水門謂【和那美之水門】
---
≪圓野比賣≫ [無歌]
於是圓野比賣慚言 同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚 而
到山代國之相樂時<取懸樹枝 而 欲死>

故 號其地謂【懸木】 今云【相樂】
  :
又 到弟國之時遂<墮峻淵 而 死>
故 號其地謂【墮國】 今云【弟國】
㊥⑫
≪倭建命≫
於是先以其御刀苅撥草 以其火打 而 打出火著向火 而 <燒退還出> 皆切滅其國造等 即 著火燒
故 於今謂【燒遺】
[_20]📖さねさし相武の小沼に燃ゆるこの火中に立ちて問ひし君はも
 :
故 登立其坂三歎詔云< "阿豆麻波夜">

故 號其國謂【阿豆麻】
[番外]📖吾妻はや
 :

故 還下坐之到玉倉部之<C泉> 以息坐之時<御心稍寤>
故 號其C泉謂【居寤C泉】
 :
自其處發到當藝野上之時 詔者 吾心恒念自虛翔行 然今吾足不得歩成<"當藝當藝斯形">
故 號其地謂【當藝】
 :
自其地差少幸行 因甚疲<衝御杖稍歩>
故 號其地謂【杖衝坂】
[_30]📖尾張に直に向かへる尾津の岬なる一つ松・・・
 :
自其地幸到三重村之時 亦詔之吾足如<三重勾> 而 甚疲

故 號其地謂【三重】
[_31]📖倭は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭し麗し・・・
㊥⑭
≪大后息長帶日賣命御子/(⑮天皇)≫ [無歌]
故 其政未竟之間 其懷妊臨産 即 爲鎭御腹取石以纒御裳之腰 而
渡筑紫國其<御子者"阿禮">坐

故 號其御子生地謂【宇美】
≪伊奢沙和氣大~之命≫ [無歌]
故其旦幸行于濱之時 毀鼻入鹿魚既依一浦 於是 御子令白于~云於我給御食之魚
故 亦稱其御名 號【御食津大~】 故 於今謂【氣比大~】
亦其<入鹿魚之鼻血臰>
故 號其浦謂【血浦】 今謂【都奴賀】
㊥⑮
≪大山守命≫
[_51]📖千早振る宇遅の済に棹取りに速けむ人し我がもこに来む
於是 伏隱河邊之兵 彼廂此廂 一時共興 矢刺 而 流 故 到"訶和羅"之前 而 沈入
故 以鉤探其沈處者 <繋其衣中甲 而 訶和羅鳴>

故 號其地謂【訶和羅前】
[_52]📖千早人宇遅の済に渡り瀬に・・・
㊦⑯
≪大后 石之日賣命≫
於是太后大恨怒 載其御船之<御綱柏者悉投棄>於海
故 號其地謂【御津前】
[_58]📖つぎねふや山代川を川上り・・・
㊦⑰
≪伊呂弟 水齒別命≫ [無歌]
爾 取出置席下之劒 斬其隼人之頸 乃<明日上幸>
故 號其地謂【近飛鳥】
上到于倭詔之 今日留此間爲祓禊 而 <明日參出將拜~宮>
故 號其地謂【遠飛鳥】
㊦㉑
≪大長谷若建命≫
爾 𧉫咋御腕 即蜻蛉來咋其𧉫而飛 <訓蜻蛉云阿岐豆也> 於是作御歌 其歌曰:
[_97]📖三吉野の小室岳に・・・其の虻を<蜻蛉>早咋ひ斯くの如何に負はむとそらみつ倭の国を<秋津洲>と云
故 自其時號其野謂【阿岐豆野】
 :
幸行于春日之時媛女逢道 即見幸行而逃隱岡邊 故作御歌 其歌曰:

[_99]📖少女のい隠る丘を<金鋤>も五百箇もがも鋤き撥るもの
故 號其岡謂【金鉏岡】
㊦㉓
≪袁祁之石巢別命≫ [無歌]
是以至今其子孫上於倭之日必自跛也 故 能見<"志米岐"其老所在>
故 其地謂【志米須】

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