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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.13] ■■■
[436][安万侶文法]膠着語の本質
つくづく思うのだが、「古事記」が文法教材として使われていれば、古文を少しは学ぶ気にもなっていたろうに。

素人から見れば、太安万侶の苦闘を眺めれば、日本語変遷の意味が自然とわかってくるからだ。

現代日本語とは、とどのつもり、夏目漱石先生に倣ったものでしかないことも見えてくるというもの。
その間を繋ぐのは、「万葉集」の前半 v.s. 終盤、と「源氏物語」 v.s. 「伊勢物語」ということになろう。そして、その理解の前提として、中華圏標準表記 v.s. 日本式レ点表記がある。
「古事記」は、こうした流れを想定していたかのように記述されており、それが712年成立とはとうてい思えず、まさに想像を絶する質の高さと云えよう。(その点では、序文を後世の創作と考えるのも無理はない。)

何度か素人目線で文法の話をしてきたが、なんといっても重要なのは、どこまで漢語を導入するかであろう。漢字を用いて表記するとなれば、どうしても中華文化圏の表現ルールに従わざるを得ない側面があり、それに全面的に従えば、ゆくゆくは中華帝国内の一部となるしかない。と云って、文字化を避けてきたから、独自文字創出は無理筋であり、漢語をどう使うかは考慮のしどころ。

太安万侶の鋭いところは、ガチの文法を避けた点。漢字表記で、文体は漢語のママだが、読みは和文で、と云うとんでもない理論。これでは、表記から一意的に読みに変換できる訳がなく、確定的な訓読は絶対にできない仕掛け。それぞれ勝手に読めということになり、国家標準にはできない代物。
しかし、だからこそ、ここから漢文の日本式レ点表記が必要不可欠となり、ルビによって一意的に読み下せる方法論が整ったのである。つまり、漢文は、中華帝国読みは行われずに、太安万侶が提唱した和文読みにされてしまったのである。おわかりだと思うが、標準化されたように見えるが、語彙は漢語の熟語とするか、倭語のレ点訓読みにするかは好き好きであり、古事記的様相から脱したというより、読み易くしたに過ぎない。

これらは散文としての流れだが、太安万侶は、詩的表現部分たる歌については、完璧な音素表現にこだわっている。文字から意味を読み取る必要がないわけで、これなら画数が多い文字を、できる限り省略形にしてかまわないことになり、これが仮名文字ということになる。この流れを、日本語表記方法として完成させたのが紀貫之と云ってよいだろう。

なんといっても、こうした流れを考えると、「古事記」の存在はとびぬけている。現代の様々な文法の原型をすべて示していると言っても過言ではないからだ。・・・
○序文は日本型の漢文。
 …中華帝国の発音で読むことになる。
○本文は倭語の単語を漢訳化して並べた訓読み和文。
 …必要なら助詞(漢字)をつける。
○そのうちの、かなりの部分が、漢文的な順序の文章。
 …レ点表記は無いが漢文訓読みになる。
○漢字を純表音文字として使用している語彙もある。
 …妥当な訳語が無い場合であろう。
○歌は、五七音を主体とする句になっている。
 …漢字を単なる音素として表記。

50音的な音素をすでに認識していると見てよいだろう。仏僧から梵語の発音分類を耳にして、日本語に適応させていたとしか思えない。
そして、中華帝国の漢語とは、構造的に全く異なっている言語であり、両者の文法上の違いを、すでに言語論的に理解していた可能性が高い。
換言すれば、日本語は文章構造ありきではなく、構造を示す語順自体が柔軟。省略さえ可能。これでは、中華帝国読み漢文をママ導入して国語とすることは無理筋と看破していたことになろう。
厳格構造を嫌う言語と云うか、その表現の仕方でニュアンスを伝えることができる歌謡的な性情が根幹にあると見抜いていたことになる。文法用語的には、助詞言語(膠着語)だと、語っているようなもの。

従って、関係代名詞のような複文はありえない。歌謡の精神が流れている以上、複文は、発言引用文だけと言ってよかろう。さらに加えれば、構造化されていないから、文章を繋ぐ接続詞という概念もあり得まい。存在するのは、あくまでも、接続詞的助詞で繋がった一つの文章でしかない。
ここだけ注目すれば、文の切れ目なく、主語も明記されずに、ダラダラ文章が並ぶ印象を与える源氏物語調の表現の祖と云うことになろう。
要するに、表面的には、どうしても助詞が多くなる。
しかも、漢文の助詞的文字を、倭文用の助詞文字に起用しているので、素人は、その文字をどう読むべきか判断がつきにくいので厄介きわまる。

このことは、助詞部分の読みは、必ずしも一意的に決まっていた訳ではないのかも。読んで意味が通じるなら、読者が、勝手に発音を想定すればよかろうという至極いい加減な表記の可能性もある。漢文における、訓読時無音文字(置字)と同じで発音表記ができないからだ。
つまり、助詞はあくまでも補助の文字だから、その文字を詠む調子は好き好きであり、詠み手の工夫次第のアドリブで結構ということになる。日本語とは、そのような歌謡的言語と主張しているようにも思えてくる。

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≪序文≫記載方針
子細採摭…事細かに(口誦内容を)ママ採択しました。
然 上古之時言意並朴…しかしながら、上古の時代は、朴訥な(今とは異なる)言葉が並んでいます。
【敷文構句】於字即難…これを構文化しようとしても、漢字の文章では難しいものがあります。
已 【因訓述】者詞不逮心 …既に、訓読みに因って記述してみたものの、詞心の本質を描くことはできませんでした。
【全以音連】者事趣更長…全てを音で以て書き連ねると、文章が殊更長くなってしまいます。
是以今 …こんなことになっているので、
或一句之中【交用音訓】 …或る場合は、1つの句の中は音訓を交ぜて用い、
或一事之內【全以訓錄】 …或る場合は、1つのパラグラフの内は全て訓読みに、します。
卽…さらに、
辭理叵見以注明…辞句の理解ができない場合は、注記を以て明らかにし、
意況易解更非注…語句の意味が容易に解る場合は、注は付けません。

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📖日本語文法の祖は太安万侶
🗣📖訓読みへの執着が示唆する日本語ルーツ
📖日本語文法書としての意義
📖倭語最初の文法が見てとれる
📖てにをは文法は太安万侶理論か
📖脱学校文法の勧め 📖「象の鼻は長い」(三上章) 📖動詞の活用パターンは2種類で十分 📖日本語に時制は無いのでは 📖日本語文法には西田哲学が不可欠かも 📖丸暗記用文法の役割は終わったのでは 📖ハワイ語はおそらく親類 📖素人実感に基づく言語の3分類 📖日本語文法入門書を初めて読んだ 📖書評: 「日本語と時間」 📖日本語への語順文法適用は無理を生じる

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