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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.23] ■■■
[669]本文のプレ道教性[10]「死」の2面性
<死>についての観念は、どの宗教にとっても極めて重要な筈だが、何時頃からかは定かではないが、神道はそこらについて表立って主張していないようだ。葬儀についてもほぼ仏僧任せが続いて来たし、神官は死の穢れを嫌うということははっきりしているが、仏教渡来以前はどうなっていたのか皆目わからない。「古事記」から読み取るのもかなり難しいものがある。
≪墓制と「古事記」≫ 📖皇位継承争いの刀 📖頭椎之大刀 📖紐小刀 📖草那藝劒 📖生大刀 📖都牟刈之大刀 📖伊都之尾羽張 📖縄文から弥生へ 📖多遲摩毛理 📖矛を考える 📖副葬品"矛" 📖前方後円墳の消滅 📖月神 📖地蟲 v.s. 鳥 📖他界について 📖葦舟葬 📖"半島の影響"考 📖異界の力 📖火葬 📖ドルメン 📖渚に建てられた産小屋 📖石信仰 📖 "勾玉" 📖密集集団墓時代 📖"土偶" 📖磨製"旧"石器時代
だからと云って"わからん"で済ます訳にもいかないので、少し眺めておくことにした。

目を引くのは、「魏志倭人伝」の記載で、倭国の葬儀が2種類あると見なしているようにもとれ、陰陽観念から発する様式で儀式が行われていた様にも思えてくる。・・・
  喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

陰陽観念が被った漢語語彙としては"魂魄"が知られており、現代迄綿々と用いられ続けているが、「古事記」では全く触れられていない。しかし、「萬葉集」所収歌では用例がある。
≪魄≫[巻三#417]河内王(689年筑紫大宰帥)葬豊前國鏡山之時手持女王作歌三首
   王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流

≪魂≫[巻十六#3889]人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之雨夜乃 葉非左思所念
≪奇し御魂≫[巻五#813]久志美多麻 [巻五#814]許能久斯美多麻
≪魂は≫[巻十五#3767]多麻之比波
従って、「古事記」編纂時点でこの言葉が知られていない筈はなかろうから、太安万侶が恣意的に避けたことになろう。
 (♀)-(肉体・自然)-腐滅(個孤立・破壊・自由)
     ⇒穢性(悲)@墓__⇒<祓>…e.g. 水中澡浴
 (♂)-(精神・文化)-永遠(集団内・秩序・統制)
     ⇒祝性(歓)@廟/祠⇒<祀>…e.g. 歌舞飲酒
【意味】人所歸爲鬼 从儿 甶象鬼頭 从ム 鬼陰气賊害 故从ム 凡鬼之屬皆从鬼 䰠:神也 从鬼申聲 :陽気也 从鬼云聲 :陰神也 从鬼白聲
・・・䰡 魖 魃 鬽 鬾 䰧 𩴪 䰰 𩲏 𩴴 𩴱 醜 魋 魑 魔 魘
  [「説文解字」第九 鬼]
中華帝国では、この魂魄に対して、さらに特別な行き先場所として異界が設定されている。
   陰界-蒿里(墓穴=黄泉)⇒泰山(冥界)
   陽界-崑崙(西方山上)⇒天上
・・・ここらの設定が宗教としての道教発祥の大元という感じがしないでもない。
【用例】
作其祝號 玄酒以祭 薦其血 毛 腥其俎 孰其殽 與其越席 疏布以冪[幂] 衣其浣帛 醴 獻以獻 薦其燔 炙
君與夫人交献 以嘉
是謂合莫 [「禮記」禮運第九]
氣歸于天 形歸于地 [「禮記」郊特牲第十一]
氣也者 神之盛也 也者 鬼之盛也 [「禮記」祭義第二十四]
天氣為 地氣為 [「淮南子」巻九主術訓]
解其天弢 墮其天𧙍 紛乎宛乎 將往 乃身從之 乃大歸乎! [「莊子」知北遊第二十二]

この陰陽観念を単純化すれば、「死」には2面性があり、神によって、個人としての存在が、"消滅再生"されるということだろう。「古事記」で言えば、以下の表現で示されているようなもの。
伊邪那美命言:「愛我那勢命
  爲如此者 汝國之人草 一日絞
千頭」

伊邪那岐命詔:「愛我那邇妹命
  汝爲然者 吾一日立千五百產屋
  是以 一日必千人死 一日必千五百人
也」

(肉体・自然)と魂(精神・文化)に対応して、<祓>と<祀>が生まれたと考えればそこだけわかり易いが、そうだとして、一体何を希求して祈願するのかが自明ではないので、悩まざるを得ない。

擬制血族の宗族祖への絶対服従"忠"を根幹とする儒教なら特段調べなくとも死に対する姿勢は自明である。死者の霊が、祖が統治する世界への入境許可を得られるように、儒者が決めた行儀で大儀式を挙行することで、存在感を生み出しているのだから。要するに、死んだところで、生前と同じ専制統治ヒエラルキー社会で宗族繁栄の活動を続けることになる。入境できないことへの懼れ感を醸成する宗教とも言え、生前から宗族長への絶大なる忠義を示すのは死後の世界での地位を確保する必要性があるからに他ならない。宗族永遠なりであって、祖に対する様々な祭祀を盛大に行うと共に、宗族への敵対行為の記憶を子孫に残し、それを贖うことを誓うことも欠かせない。
(孔子が基本テキストとした「儀礼」には周王朝の支配階層/官の位冠・外交・婚姻・喪葬等を記載した書とされている。士喪礼篇は親の葬儀を対象としている。古代の礼制度の根幹と言ってよいだろう。古代といっても、口誦神話を抹消して文書統治を確立した時代であるから、極めて精緻な式次第を伴っている。
殷代の巫による祖先崇拝儀式を、周代に擬制血族"姓"で規定される宗族祭祀に変えることで、王朝支配体制の飛躍的強化が実現できたと見ることができよう。
儒教国では、古代から現代迄、"ヒトの一生に於いて"最重要儀式とされてきた。死者に対し生者のように仕えることで、宗族祖の命を宗族祖が忠実に実行する統制組織を護持できることになるからだ。)

 ・・・子曰:「生 事之以礼 死 葬之以礼 祭之以礼」   [「論語」巻一爲政第二#5]
(孔子は死に当たっては、喪と祭の2段階の礼ありと説明しているが、正確には、3段階となる。・・・
①【殯】一般的には、"死者の魂を呼び戻す儀礼"が核とされているようだが、要するに、魂が遺体の魄から遊離したことを確認するための行儀。完全に息を引き取った状態であることの証明作業、疑似食的お供え行為、遺骸の清掃着替納棺措置、安置場所設定と内容が多岐に渡るので、詳細かつ複雑に規定されることになる。儒者とは、もともとはこの一連の作業の請負人であったと想定して間違いなかろう。
②【葬】お棺の埋葬。墓地や期日設定が専門家によって決められ、墓所には遊離魄を供する場が設けられると共に、墓地守護神祭祀が行われることになる。当然ながら、殯の地から埋葬地まで、行儀に従った行列行進が挙行されることになる。
③【祔】儒教国ではこの儀式が最重要となる。祖霊の了解が出て、死者の霊を宗廟に迎え入れることになるからだ。死後世界は他にないので、この儀式を終えないと、死霊は社会から見捨てられた状態に陥ることになる。従って、この儀式は長期間にわたり、祭祀として盛大に行われることになる。)
従って、儒教は天竺仏教とは折り合いが悪い。死後しばらくすると、六道界のいずれかに再生するという輪廻観念を組み入れ難いからだ。しかも、自ら行って来たことの反映で往く先が決まるとされるのも、個人の意思を表に出されてしまいかねず、専制的に抑え込もうという方向とは逆になってしまう。特に、個人の自力で解脱することを説かれたのではたまらないだろう。

「酉陽雑俎」を読んでいるとこの気分はよくわかるが、西洋の救済宗教からするとトンデモナイ人々との印象を抱くのは間違いなかろう。それは、道教が、儒教国家つまり天帝命で専制権威主義のガチガチの管理ヒエラルキーが作られている社会の補完役であることに気付くか否かの差。
・・・儒教国では、死んだところで、ヒエラルキー的に並ばされている神々の下の統治官僚群にコントロールされる生活が待っているのであり、獄苦を味わような境遇は流石にたまらぬが、神の下で命令を下されて相変わらず諾々と下働きの毎日が続く。それを希求する気がせず、というに過ぎまい。道士に頼んで、冥界の官僚に賄賂を回してもらい、少しはましにならないか画策するというのが普通の態度である。天国-地獄のコンセプトは西洋とは異なっており、知的な階層の道士はヒエラルキー社会などまっぴらご免。統制社会の天国往きを避けたいが故の、自由を目指しての仙化修行なのだから。西洋的に、信仰はあくまでも個人の意思と考えるなら、死後の社会的地位を上位者から頂戴したいとの希求より、神の了承のもとに自己実現的な現世願望実現が前面に来るのは当たり前。
それこそがヒトの<道>。・・・
人道當  食甘旨 服輕暖 通陰陽 處官秩 耳目聰明 骨節堅強 顏色ス懌 老而不衰 延年久視 出處任意 寒溫風濕不能傷 鬼神眾精不能犯 五兵百毒不能中 憂喜毀譽不為累  乃為貴耳  若委棄妻子 獨處山澤 邈然斷絕人理 塊然與木石為鄰 不足多也  [葛洪:「抱朴子」內篇卷三對俗]
【私訳】
ヒトの<道>に当たるのは、
甘くて旨い物を食べ 軽くて暖かい服を着て 性行為に通じ 任官俸禄に処され 耳目は聡明で 骨太かつ節々強健にして 顔色は喜びに満たされており 老いても衰えを知らず 延命も長久に渡り 出処進退は自由気まま 寒さ暑さ風や湿気で体を痛めることもなく 死霊や衆勢から犯されることもなく 武器や毒薬にやられることもなく 毀誉褒貶に煩わされることもない
・・・と云うこと、と皆が言っている。
若し、妻子を棄てて 独り山野に住み 人との交流を断絶した状況を作り 木石状態で山奥に固まっていたのでは 満ち足りているとは言えまい。


逆説的だが、道教の仙人希求 脱世俗の根本はココにある。

倭の信仰も、一般に、現世願望が強いとされているが、上記とはいささか異なるのでは。

「古事記」を読む限り、天帝-天子や宗族的観念があったとは思えないからだ。儒教国模倣の中央集権国家路線が始まって以降とは全く異なると考えるべきだろう。そうなると、道教とは背景が180度違うことになる。
ただ、倭国に、不死実現可能との考え方があってもおかしくはなさそう。そうなると、道教似といえるが、プレ道教時代の不死の考え方と見ることもできるのでよく考える必要がありそう。
道教の不死願望とは、仙人志向由来であり、もともとは不死ではなく、儒教的社会規範への老子的アンチテーゼだった筈だから。脱儒教社会ということで仙人概念が生まれたのであり、不死希求からではなく、不死は原始信仰から引いて来た後付けと見るのが自然。・・・
その不死の原始信仰の残渣は「山海経」で見ることができる。・・・
[海外南經]不死民在其(交脛國)東 其為人K色 壽 不死 一曰在穿匈國東📖
[大荒南經](大荒之中[2])有不死之國 阿姓 甘木是食📖
[海內西經](《流沙》西<開明東>)操不死之藥📖
[海內經]流沙之東 K水之 有山名不死之山📖

上記は<不死者>の存在伝聞と言うことになろうが、もともとその能力がある特殊な人々と見ているのではなく、特定の樹木、水、薬の存在が指摘されている点で、如何にもプレ道教的。
つまり、古代から、<不死薬>の存在が信じられていたことになろう。
この辺りの信仰が、<道教>の成立の原動力ともなった、<神仙>信仰に被さった由縁だろう。重要なのは、個人が<不死薬>を追求するという姿勢で、上意下達ヒエラルキー社会から離れた活動ということになる。官僚統制社会では、許されざる態度に見えるが、例外的に容認されている補完者だからこそ可能な行為。管理統制社会外からしか"新しい知恵"を得る手段が無いからである。

ただ、実態から言えば、道教に組み込まれた不老不死追求の流れは、沿海部の方士が作り出したようだ。(斎 威王-宣王・燕 昭王⇒始皇帝)
自<威・宣> 燕<昭>使人入海求"蓬萊 方丈 瀛洲" 此三神山者 其傅在勃海中 去人不遠 患且至則船風引而去 蓋嘗有至者 諸僊人及不死之藥皆在焉 其物禽獸盡白 而 黃金・銀為宮闕 未至望之如雲及到三神山反居水下 臨之風輒引去 終莫能至云 世主莫不甘心焉  [「史記」巻二十八封禪書第六]
さらに、その後の、漢 武帝に繋がっており、こちらは有名な話。・・・
"前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えた。"📖西王母の扱い

ついつい話が長くなり過ぎてしまった。
核心的なことから遠ざかってしまったので、別稿であらためて、・・・。
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