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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.11] ■■■
[406]山邊之道上陵とは
「古事記」の記載は至極簡略。
従って、御陵1つとっても、何の説明も無いから、どのように解釈するかは読者の好き好き。

小生は、御陵記載がある天皇は、確固たる伝承が存在していると太安万侶が判断したと見る。
従って、非記載はその範疇から逸脱していることになり、何か重要なメッセージ性があると見なす。📖 [私説]24・29代御陵非記載の意味

ある意味、このような書き方こそが太安万侶流と言えるのでは。

編纂者としてだけでなく、家の都合で様々な情報に触れて来た筈で、天才的記憶能力があり天武天皇から直接話を聞いていたパートナーとの共同作業でもあったから、書いてなくとも、実態を理解していた可能性は高かろう。
しかし、当たり前だが、1官僚がそれを自分の見方として直截的に表明することができる訳がない。思わせぶりに書いたりするだけでも、どのような扱いをされるかわかったものではないからだ。(「古事記」成立時、すでの官僚組織には儒教型の統制が整っており、中華帝国の例を挙げるまでもなく、組織内での権謀術数は当たり前だったろう。そのなかで生き抜く術を知らなければ、下手をすれば一族絶滅を仕掛けかれてしまう。リスク極小化編纂方針は大前提と言えよう。)

前置きはこの位にして、検討を開始しよう。
片岡の御陵を廻って考えてみたので📖、個人的に、ずっと気になっていたことが思い出されてしまった。そこで、そこらに触れておくことにした。

それは、"山邊之道"の御陵である。
この道も観光地化され、開発も目立つようになったため、行くこともないのだが、ひと昔は人っ子一人いない農村地帯の細い道でしかなく、それはそれでなかなかの気分を味わえる滅多に無い場所だった。
特に、天理から入ると、山邊道勾之"岡上"陵が突然現れるのが圧巻。古代はどうだったのか思い巡らすことになるからである。
そして、先に進むと、再び御陵が顕れる。規模からして、説明なくしても大王陵だろうとなるが、これが山邊之道"上"陵とされている。
素人は、そこで"エッ"と驚くのである。これが"上"の訳がなかろう、と。

道がもっと西側だったならそれもあり得ようが、どう見てもその様な可能性は薄そう。と言っても、この近辺に御陵相当の前方後円墳は無い。
従って、マ、それでよいのだろうと納得するしかないが、腑に落ちないのである。

但し、候補が皆無とまでは言えない。小振りだが、大王墓とみなせそうな西殿塚古墳(230m)だと、道が西側の傾斜地にあるからだ。
ところが、この古墳は、衾田陵(26代皇后 手白香皇女)と治定されているから、該当しそうな伝承はおそらく皆無なのだろう。それに、宮の場所が穴師坐兵主神社付近とすると、わざわざ遠く離れた地に設定する必然性に乏しいし。

●大和
  西殿塚234m▲△🈠
  東殿塚175m🈜
  クラ塚144m[円]
  波多子塚140m🈜
  矢ハギ120m[円]
  栗塚120m
  中山大塚120m🈠
  下池山120m[前方後方]
  西山塚120m🈝
  フサギ塚110m[前方後方]
  馬口山110m🈜
  燈籠山105m🈜
●柳本
  櫛山150m[双方中円]
  渋谷向山302m▲▲=山邊之道上◇12🈜
  行燈山242m▲△=山邊道勾之岡上◇10🈜
   北アンド山120m
  上の山144m[円]
  黒塚128m🈠
  大和天神山113m
  石名塚111m🈜
  柳本大塚94m🈠
〇穴師丘@巻向山
  珠城山53m
●纒向/巻向
  箸墓276m▲▲🈠
  纒向勝山110m🈜
  東田大塚110m🈜
  纒向矢塚96m🈜
  纒向石塚96m🈠
  ホケノ山80m🈜
〇三輪山

もともと、この天皇の事績記載が無いので、大和国の状況はよくわからない。
しかも、3太子との常識に反する事態が発生している。しかも、天皇については情報が無いというのに、皇嗣でない皇子の征伐譚は満載とくる。編集方針が異様と言ってよいだろう。
但し、異例にも、この皇子の御子が次々代として即位するので、血族的には、天皇相当ということになるから、とんでもない記載という訳ではない。

さらに驚かされるのは、御子の数が80(御子:所録21王, 未記載記59王)と半端でない点。あり得ない数字とは言えないものの。・・・ここは、単純な系譜記載にすぎないが、御子全員を王に任命したとされており、これが唯一の天皇の事績と言えなくもない。

この記載の意味するところは、はなはだわかりにくいが、「古事記」では王の男女表記をしていないから、ここらで女王の立場が大きく変わったのかも知れない。どうも、皇女は降嫁しない慣習があったようだが、女王が多数登場してくるということは、それに沿わない動きが出てもおかしくなさそうだからだ。

ともかく、なんらかの大きな変化が起きていそう。皇嗣は、宮を奈良盆地外の近淡海之志賀高穴穗宮へと移しているからだ。東国を支配し尾張熱田に座す太子倭建命は伊吹山で命を落としており、奈良盆地外の近江には、侮りがたい勢力が存在していたのは間違いなさそうだし。
もしもそうだとすると、皇位継承の儀式のために、巨大な御陵ををわざわざ奈良盆地内に造成する必然性に乏しい気もしてくる。巻向〜柳本の宮地の側ではなく、石上⇒春日⇒ならやま⇒近江への道筋に御陵を造成したと考える方が自然かも。皇嗣の御陵は佐紀の西端に造成されているから、大和国内にはなりそうだが。
ところが、それに当たりそうな大王規模の古墳は見当たらない。

近淡海志賀_高穴穂若帶日子天皇(成務天皇)沙紀多他那美
纒向日代大帶日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)山邊道上
磯城玉垣伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)菅原御立野中
師木_水垣御真木入日子印恵命(崇神天皇)山邊道勾岡上
春日伊邪河若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)伊邪河坂上

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片丘とは建内宿祢勢力の地か

 ■■■ 御陵 ■■■ 
科長は新時代の
集合墳墓地

河内の坂門原は
お話と見たか

兄弟とその皇位継承者間に
問題ありか

檜垧宮天皇御陵は
継承儀式無しか

形状変更の
合陵は非掲載か

御陵名非掲載
の意味

石寸から王陵の谷への
改葬とは何か

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