→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.25] ■■■ [附63] 仏像譚から見える流れ 一方、「今昔物語集」を眺めていると、現実はその理屈通りには展開していないことを示しているようにも映る。ただ、空海が主張するように、真言密教の前段階が顕教の華厳という点では一致しているようだが。 その辺りについて、仏像記載譚で検討してみたい。 まず、【天竺】での仏像だが、最初に登場するのは釈迦仏の筈だが、単に"仏"と記載してあり、普通名詞的に登場してくる。 次に登場するのが3尊。 うち、2尊は阿弥陀と弥勒。"仏"の脇侍であることが多かったようだが、やがて独尊化したと見てよいだろう。お馴染みの釈迦三尊像(文殊+普賢)📖初期仏像グループの見方は登場しない。3尊目は、いかにも現世利益をかなえる役割を示していそうな薬師だ。 そして、十方諸仏となり、いかにも曼荼羅密教的流れが存在していることが示され、最後が地獄観の閻魔王。 続いて【震旦】だが、こちらになると、釈迦仏から始まる。"仏"との記載譚も付随している。 天竺同様に、阿弥陀と弥勒かと思いきや、阿弥陀のみ。しかも極楽往生信仰対象としての如来であることが明確になっている。未来仏である弥勒信仰は、ソグドでは盛んだったが、震旦では阿弥陀信仰の影に隠れてしまったということだろうか。 その一方、薬師は人気があったように見える。天竺とは大違いで、来世仏の救済より、先ずは現世での霊験希求という風土ということを示唆しているようなもの。 そして、阿閦と多宝塔。密教の世界へと、薬師的東方世界信仰から替わっていくことを意味していそう。 さらに、目を引くのが高二十餘丈の盧舎那仏話収載。国家的に華厳を第一義としたことが、結節点的意味を持っていそう。大仏を造るということは、そこを中心として、ネットワークが全土に広がることを意味しているからだ。仏教観を天子独裁の中華思想で解釈したのであろう。 その上で、千仏、金剛界、胎蔵界と完璧な密教曼荼羅へと進み、一連の震旦仏像譚グループ収録が完了する。 この盧舎那仏(⇒曼荼羅の中心大日如来)の流れは、ソグドと震旦の接点である敦煌石窟に於ける、弥勒も含めた大仏造像から始まったと言えそう。4世紀のこと。これが5世紀の大同雲崗石窟に結実し、華厳が作られていったのだと思う。6世紀に入ると、洛陽龍門石窟・麦積山が加わってくる。 7世紀には、玄奘が核となり訳経が一挙に進み、宗派が作られていくことになるが、中華帝国の仏教としては華厳経が措定されることになったと見てよさそう。武則天にしても、玄宗にしても、国外にまで交流が可能な仏僧のネットワークを全土に構築することで政権基盤を盤石にし、対外的にも世界の中心の地位を作り上げようとしたのであろう。(大興国寺/大安国寺/鎮国寺[仁王護国般若経]、大雲寺[大雲経]、竜興寺,開元寺は、本朝の諸国国分寺のモデルでもある。) 震旦密教とは、この流れに沿って8世紀に入って生まれてきたということのようだ。大衆には高尚過ぎる華厳教義でなく、山林修行を旨とする土着信仰者を仏教に取り込める、曼荼羅観念を加え、さらに、民衆が期待する呪術も整備することで、広範な層に応えられる密教を華厳の上に重ねていったと見ることができよう。 このように考えると、"仏教伝来⇒白馬寺"の流れは、華厳の仏法の象徴、かつ宇宙的な概念を抱える大仏ではなく、未来仏の弥勒や往生を目指す阿弥陀信仰へと繋がっているように思えてくる。形而上の仏法ではなく、娑婆世界から昇天した行く先で待っていてくれる如来や菩薩というコンセプトは、仙人修行にのめり込む道教を中心とした修行者をママ取り込むことができるからだ。 実際、道仏習合は早くから進んでいたのは間違いない。地場信仰というか道教の山岳修行地には早くから僧が入っていたのである。📖聖山@「酉陽雑俎」の面白さ・・・ 太白山@陝西…卍天童寺300年(義興)、卍阿育王寺282年 盧山@江西…卍東林寺384年(慧遠) 雞足山@雲南…[彌勒菩薩下生成佛處] 泰山[東岳]@山東…卍神通寺351年(竺僧朗) 衡山[南岳]@湖南…卍雲龍寺/法輪禅寺330年、卍568年(慧思) 嵩山[中岳]@河南…卍陟岵寺/少林寺496年(跋陀) 華山[西岳]@陝西 恒山[北岳]@山西…卍悬空寺491年 茅山@江蘇…多分に浄土信仰的色彩 終南山@陝西…[律宗、華厳宗、三論宗の発祥] 石壁山@山西…玄中寺472年(曇鸞[浄土教]) 五台山[文殊菩薩霊場]@山西 峨眉山[普賢菩薩霊場]@安徽 --- 以下は、地場信仰が見えなくなり、高僧霊験が由緒となる。 --- 九華山[地蔵菩薩霊場]@安徽 普陀山[観音菩薩霊場]@浙江 この場合、形而上的な存在である大仏を中心とする全土ネットワークに属する盧舎那仏像をいきなり持ち込むのは余りに無理があろう。 天竺の流れを踏まえると、脇侍でもあり、天に居られる阿弥陀如来か弥勒菩薩信仰が仙人志向には親和性が高かろう。しかし、「今昔物語集」編纂者は、震旦では未来仏である後者への信仰は下火になったと見なしたようで、造像したとの話を欠く。それよりは、現世利益をかなえる薬師仏信仰が広がったようだ。このことは、山岳に籠るといっても、一ヶ所に留まらず霊山巡礼が多かったことを意味しているのではないか。旅の途中では、俗人に頼らざるを得ず、呪術を駆使した祈祷を請け負った筈で、それに合致するのが薬師だったと見てよさそう。 つまり、震旦での渡来仏教には2つの流れがあったことになる。 1つは、天竺で形成された王朝鎮護のために高度な思想に磨き上げられ華厳に至る流れ。そして、それに付随する、延命を中心とする現世利益実現の薬師信仰。 もう1つは、当初から準天竺色が濃く、ソグドで磨かれた、天から救済のために未来に降臨する弥勒信仰。 後者が、土着信仰に入っていったのだろうが、現世利益志向の風土と、すでに渡来時点で大乗化が進んでいたので、菩薩行第一ということで、山岳寺院にはもともとの霊山由来や仙人霊験談に合致する菩薩が選ばれるのが自然であり、弥勒の影響は軽微になっていったのだろう。 これを踏まえて、仏像譚から、本朝の流れを想定すると色々とみえてくる。 冒頭で書いたように、華厳の鎮護仏教による全土統治体制確立から密教曼荼羅信仰へと継承される流れがはっきりしており、これは震旦の第一の流れに沿ったもの。 大仏(釈迦仏@元興寺金堂/飛鳥寺)609年 ⇒大仏(盧舎那仏@東大寺)752年 ⇒大日如来像@835年東寺/教王護国寺講堂[現存像は室町期再興像] 同じように、現世利益希求ということで、並列的に薬師像尊崇も。 法隆寺金堂607年・薬師寺⇒東寺金堂・延暦寺根本中堂 第二の流れは、聖徳太子の救済的菩薩行志向ということになろう。 従って、仏像的には弥勒信仰と考えるのが自然だ。そうなれば、震旦同様に、各地区で自立していた山岳神祇と習合していくことになろう。ところが、大陸のような広大な国土ではないから、官製のスタティックな国家鎮護のネットワークより、神仏習合修験者の頻繁な巡礼による交流が生み出す自然発生的な連携が力を持ちやすい。これが組織化されでもしたら、教権樹立という事態に陥ってもおかしくなかろう。修験の流れから離れることなき、役行者や行基が、中央政権と齟齬をきたすことになるのは避けられまい。 さらに、救済が前面に出てくる弥勒信仰も同様な摩擦を生みかねないから、次第に避けられていったと考えることもできよう。薬師が山寺に迎え入れられたのは、その辺りの事情からのようにも思える。 そんなことを考えると、廃寺になりかねない状況を記載した巻十二#24譚をグループ末尾に収容しているのはなんとも象徴的。"天"に居り、天竺やソグドでは阿弥陀と一緒に釈迦仏脇侍でもあった弥勒のお寺の話でもあるからだ。以後の本朝では、弥勒の姿は滅多に見られることがなくなり、往生祈願としての阿弥陀信仰一途になっていったのである。 天竺⇒震旦⇒本朝の流れを見る上では、ここまでで十分ということ。 観音(巻十六)・地蔵(巻十七)の造像はこれとは係わらないということでもある。道教が観音を取り入れて女神になったように、本朝でも神仏習合で独自な姿形での地蔵信仰が深まったりと、ここらで道は分かれた訳だ。 【天竺部】巻四 天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)📖仏滅後の教団活動記 <16-22 仏像経典霊験> 《16絵仏像》 ●[巻四#16]天竺乾陀羅国絵仏為二人女成半身語📖天竺の仏像霊験 ⇒玄奘:「大唐西域記」二健馱邏国ガンダーラ 《17仏像》 ●[巻四#17]天竺仏為盗人低被取眉間玉語📖天竺の仏像霊験 ⇒玄奘:「大唐西域記」十一僧伽羅国シンガラ <36-41 諸仏霊験> 《36-37阿彌陀佛》 ●[巻四#36]天竺安息国鸚鵡鳥語📖阿弥陀仏信仰 📖聖鸚鵡 ⇒「三寶感應要略錄」上17阿彌陀佛化作鸚鵡引接安息國感應 ●[巻四#37]執師子国渚寄大魚語📖阿弥陀仏信仰 《38薬師仏》 ⇒「三寶感應要略錄」上18阿彌陀佛作大魚身引接捕漁人感應 ●[巻四#38]天竺貧人得富貴語📖震旦の藥師如來信仰 ⇒「三寶感應要略錄」上23昔一貴姓祈請藥師靈像得富貴感應 《39彌勒菩薩》 ●[巻四#39]末田地阿羅漢造弥勒語📖金色彌勒菩薩像 ⇒「三寶感應要略錄」下11烏長那國達麗羅川中彌勒木像感應 《40十方諸仏+法華経》 ●[巻四#40]天竺貧女書写法花経語📖捨髮供養 📖天竺の法花経霊験 《41閻魔王》 ●[巻四#41]恋子至閻魔王宮人語📖Yama 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)📖「三寶感應要略錄」引用集 <11-30 像> 《11-13釈迦仏》 ●[巻六#11] 震旦唐虞安良兄依造釈迦像得活語📖釈迦牟尼像 ⇒「三寶感應要略錄」上_9唐虞安良助造釋迦像免苦感應 ●[巻六#12] 震旦疑観寺法慶依造釈迦像得活語📖釈迦牟尼像 ⇒「三寶感應要略錄」上_5凝觀寺僧法慶未畢釋迦像感應 ●[巻六#13] 震旦李大安依仏助被害得活語📖釈迦牟尼像 ⇒「三寶感應要略錄」上_6唐隴西李太安妻為安造釋迦像救死感應(出冥報記) ⇒唐臨:「冥報記」中8李太安 《14仏》 ●[巻六#14] 震旦幽州都督張亮値雷依仏助存命語📖落雷 ⇒唐臨:「冥報記」中17張亮 《15-20弥陀仏》 ●[巻六#15] 震旦悟真寺恵鏡造弥陀像生極楽語📖終南山悟真寺 ⇒「三寶感應要略錄」上_7悟真寺釋惠鏡造釋迦彌陀像見淨土相感應 ●[巻六#16] 震旦安楽寺恵海画弥陀像生極楽語📖阿弥陀仏五十菩薩図 ⇒「三寶感應要略錄」上12隋安樂寺釋惠海圖寫無量壽像感應 ●[巻六#17] 震旦開覚寺道喩造弥陀像生極楽語📖復仏期造像 ⇒「三寶感應要略錄」上13隋朝僧道喩三寸阿彌陀像感應 ●[巻六#18] 震旦并州張元寿造弥陀像生極楽語📖并州の仏教 ⇒「三寶感應要略錄」上14并州張元壽為亡親造阿彌陀像感應 ●[巻六#19] 震旦并州道如造弥陀像語📖并州の仏教 ⇒「三寶感應要略錄」上15第十五釋道如為救三途衆生造阿彌陀像感應 ●[巻六#20] 江陵僧亮鋳弥陀像語📖洞庭湖文化圏 ⇒「三寶感應要略錄」上16宋(江陵長沙寺)沙門釋僧高造丈六無量壽像感應 《21-24 薬師仏》📖震旦の藥師如來信仰 ●[巻六#21] 震旦温州司馬造薬師像得活語📖震旦の藥師如來信仰 ⇒「三寶感應要略錄」上28溫州司馬家室親屬一日之中造像藥師七軀感應 ●[巻六#22] 震旦貧女銭供養薬師像得富語📖震旦の藥師如來信仰 ⇒「三寶感應要略錄」上24貧人以一文銅錢供藥師像得富貴感應 ●[巻六#23] 震旦淄州女依薬師仏助得平産語📖震旦の藥師如來信仰 ⇒「三寶感應要略錄」上27藥師如來救難産苦感應 ●[巻六#24] 震旦夏侯均造薬師像得活語📖震旦の藥師如來信仰 ⇒「三寶感應要略錄」上26夏侯均造藥師形像免罪感應 《25阿閦仏》 ●[巻六#25] 震旦鐫恵造阿閦仏生歓喜国語📖震旦阿閦仏 ⇒「三寶感應要略錄」上21釋俊惠圖造阿閦佛像感應 《26多宝仏》 ●[巻六#26] 震旦国子祭酒粛m得多宝語📖梁の粛m ⇒唐臨:「冥報記」中14蕭m 《27盧舎那仏》…高二十餘丈 ●[巻六#27] 震旦并州常慜渡天竺礼盧舎那語📖大仏 ⇒「三寶感應要略錄」上29造毘盧舍那佛像拂障難感應 《28千仏》 ●[巻六#28] 震旦興善寺含照礼千仏語📖千佛図像の流れ ⇒「三寶感應要略錄」上31釋含照圖寫千佛像感應 《29金剛界》 ●[巻六#29] 震旦汴州女礼拝金剛界得活語📖両界曼荼羅 ⇒「三寶感應要略錄」上35禮拜金剛界大曼陀羅圖感應 《30胎蔵界》 ●[巻六#30] 震旦沙弥念胎蔵界遁難語📖両界曼荼羅 ⇒「三寶感應要略錄」上36念胎藏大曼陀羅諸尊像感應 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)📖法会と仏像・経典霊験譚の巻[巻十二] <11-24 諸仏像> 《11橋木像》 ●[巻十二#11]修行僧広達以橋木造仏像語📖架橋 📖弥勒菩薩 《12薬師》 ●[巻十二#12]修行僧従砂底掘出仏像語📖仏像御難 《13銅像》 ●[巻十二#13]和泉国尽恵寺銅像為盗人被壊語📖仏像御難 《14釈迦牟尼》 ●[巻十二#14]紀伊国漂海依仏助存命語📖紀伊水道漂流 《15-16釈迦如来》 ●[巻十二#15]貧女依仏助得富貴語📖大安寺中尊丈六釈迦如来像 ●[巻十二#16]獦者依仏助免王難語📖大安寺中尊丈六釈迦如来像 《17六道》 ●[巻十二#17]尼所被盗持仏自然奉値語📖八幡宮放生会 《18阿弥陀》 ●[巻十二#18]河内国八多寺仏不焼火語📖阿弥陀仏信仰 《19-20薬師》 ●[巻十二#19]薬師仏従身出薬与盲女語📖伝教大師の薬師仏像 📖盲目開眼譚 ●[巻十二#20]薬師寺食堂焼不焼金堂語📖薬師寺ご本尊 《21(釈迦三尊)》 ●[巻十二#21]山階寺焼更建立間語📖興福寺回禄 《22大日如来》 ●[巻十二#22]於法成寺絵像大日供養語📖大伽藍法成寺 《23七仏薬師》 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