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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.14] ■■■
[409]個人的贔屓で宝来山古墳を御陵扱いに
以前、古都散策方法として「薬師寺感服コース」を取り上げたが📖"西の京から、西大寺・秋篠寺へ、そして奈良町…"、小生的には、仏教から離れ、西の京地区で、古墳情緒に浸ってシミジミするのも魅力的だった。御無沙汰が長いので、今は大きく替わっているだろうが、唐招提寺から西大寺駅側のケーキ屋さんで一休みする徒歩コースである。・・・人っ子一人見当たらないなかで、やがて暮れ行く空の下の、農耕地内の大池に浮かんでいるかのように映る御陵の風景は、見事な抒情詩を醸し出しており、素晴らしいかった。観光地にして欲しくないと思ったが、その後どうなったのだろうか。

それは、御洒落にも、宝来山古墳と名付けられており、菅原伏見東陵[前方後円]@尼辻西[宮内庁治定]でもある。
「古事記」では、・・・
磯城玉垣伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)菅原御立野中
(素人の推定だが、この場所はもともとは平坦地ではなかった筈。従って、池ではなくいくつかの周濠構造になっていたと思われる。現況は、農業用溜池化の結果ということになる。そのお蔭で、本来的には離れている陪塚までもが池中に浮かんでいる風景が生まれ、それが事績を想起させるので情緒が深まっていく。)

問題は、菅原がこの地である確証が無い点。
なかでも厄介なのが、同じ地名の御陵がもう一つあるが、それに該当する古墳が見当たらないこと。
石上_穴穂穴穂御子(安康天皇)菅原伏見岡

驚くことに、比定地が古墳ではなく山城跡なのである。・・・
  古城1号/宝来城跡…菅原伏見西陵[方丘]@宝来[宮内庁治定地]
流石にそれはないだろうということで、宝来山古墳の培墳を当てたりするが、小さな円墳であり、御陵相当とは言い難いものがある。
  兵庫山古墳/垂仁陵飛地い号[円40m-H5m]

それでは、菅原の地はどこかと問うことになるが、もちろん説得力ある解答ができる訳がない。

そもそも、宮地が奈良盆地東なのに、御陵を西に造営するセンスがよくわからないところがあるから、マ、場所はわからぬものの、宝来山古墳以外の地であろうと、納得しかねないのが実態。

しかし、情緒的には、小生は、宝来山古墳でOKである。

というのは、太安万侶が、伊久米伊理毘古伊佐知命のセンスは独特であるといわんばかりの事績を集めているからだ。いかにも、智慧はインターナショナルな交流からと考えていたように見えるし、沙紀地区の女系勢力との連携にご執心でもあり、朝廷文化の雑炊化を推進しているように見えるからだ。
宝来山古墳もその観点で造営させたのではあるまいか。沙紀にも近く、古墳のすぐ側には菅原東遺跡埴輪窯跡群@横領がある場所なのだから。

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 ■■■ 御陵 ■■■ 
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石寸から王陵の谷への
改葬とは何か

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