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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.18] ■■■
[413]畝傍山御陵について
Wikiによれば、初代の御陵の比定地としては以下の3ヶ所があげられるそうだ。
山頂に近い方から、・・・
  畝傍山丸山
     (山腹)@高市郡洞
  畝傍山東北陵/四条ミサンザイ/神武田
     (円丘=小さな塚:畝傍山東北300m平坦部)
     @高市郡白檮山本/橿原大久保(宮内庁治定)

  福塚/塚山
     (円墳:畝傍山西700m)@高市郡四条(宮内庁治定は綏靖天皇陵)


"畆火山の北の方の白檮の尾の上にあり。"と書いているのだから、天武天皇代にはその地に御陵とみなせる墳丘が存在したと考えるべきだろう。地形上目立つことは考えにくいから、その地で祭祀が行われていたことを意味しよう。

そうなると、地形的に該当するのは丸山しかあるまい。(Wikiによれば丸山は部落問題が絡んでいるそうだから、関係者以外、その実態はわからないだろう。)

実は、このような真面目な話をせずとも、インテリなら比定地探索の難しさは百もご承知。もっとも、それは「今昔物語集」巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)#35"元明天皇陵点定恵和尚語"。📖多武峰を読んでいればの話だが。余計なことだが、現代人が読んでも"石の鬼型"が出てきたりして実に参考になる。
ここでは「古事記」が献上された㊸元明天皇が題材だが、火葬の遺言をしており、721年崩御後、無喪儀で椎山陵に埋葬された記録がある。にもかかわらず、御陵の場所はすでにわからなくなっていたというのだ。・・・もちろん、御陵話は政治が絡むから、比定の努力はほどほどにという冗談半分のストーリーに仕上げてある危うい話なのだが。(こんな譚があるということは、院政時代に元明天皇陵の場所は"完璧に"不詳だったことは間違いないことになる。)

どうあれ、初代がこの地を選定したことで、御陵の地になったのは間違いなさそう。ただ、陵守が早々と消えてしまったようだから、トレースできる地名は後世のものと見た方がよいだろう。

境岡大倭日子鉏友命(懿徳天皇)橿原_畝火山真名子谷上
片塩_浮穴師木津日子玉手見命(安寧天皇)橿原_畝火山美富登
葛城_高岡神沼河耳命(綏靖天皇)橿原_衝田岡
畝火_白檮原神倭伊波礼毘古命(神武天皇)畝火山北方白檮尾上

初代の御陵がこの調子である以上、他も大同小異の状況と考えてよいだろう。

宮地は一代限りなので、以後、消えてしまうだろうが、御陵は破壊されない限り残る。例えば、橿原地区の衝田岡という実地名が書かれている以上、そこには御陵と見なせる墳丘が存在していたのは間違いあるまい。本来的には、そこに陵守集落が存在している筈だが、ほとんどの場合霧散してしまったのだろう。
"畝火"は耳慣れぬ言葉だし、文字の意味も不可思議な感じがするが、太安万侶の見立てでは、寒くなる季節に山焼きが行われ、それが奈良盆地の風物詩でもあったということだろうか。

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"村"の御陵とは何を意味するのだろう


下巻末部記載御陵の比定地確実性


三島之藍陵が摂津最大規模ではない理由


個人的贔屓で宝来山古墳を御陵扱いに


佐邪岐皇御陵とは帝王陵墓の意味か


遺志に反し円墳御陵にされたか


山邊之道上陵とは


片丘とは建内宿祢勢力の地か

 ■■■ 御陵 ■■■ 
科長は新時代の
集合墳墓地

河内の坂門原は
お話と見たか

兄弟とその皇位継承者間に
問題ありか

檜垧宮天皇御陵は
継承儀式無しか

形状変更の
合陵は非掲載か

御陵名非掲載
の意味

石寸から王陵の谷への
改葬とは何か

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