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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.19] ■■■
[414]倉椅岡上陵比定地混乱に納得
「古事記」長谷部若雀命段では何も触れられていないが、国史では即位後5年に、臣下に暗殺されたとされている。
異母の3御子はすべて御陵は科長にあるが、そうなっていないので何か異変があったことはわかるものの、そこまでの大事件の割に太安万侶は知らん顔である。
  ┬石比賣命(皇女)
  └沼名倉太玉敷命
  ┬岐多斯比賣(宗賀之稻目宿禰大臣之女)
  └橘之豐日命 豐御氣炊屋比賣命
  ┬小兄比賣(岐多志比賣命の姨)
  └長谷部若雀命
倉橋_柴垣長谷部若雀命(崇峻天皇)倉椅岡上
数字ははっきりしないが、第12皇子のようで、孫世代に移行する時期であるから、水面下では皇位継承争いが勃発していた筈で、天皇としてそこに関与しようとすればどうなるかわかったものではないということだろう。
遠い縁戚関係しかなくても即位可能というルールを作ってしまった以上、臣下か皇族かはなんとも言えないし、皇族内暗殺はすでに発生しており、その経緯は細かく記載されており、仰天するような事件とは言えないということか。

比定地は4ヶ所。・・・
  倉梯岡陵(円丘)@桜井倉橋(宮内庁治定)
   =倉梯柴垣宮旧地(天皇屋敷)/金福寺位牌堂伝承地
  赤坂天王山古墳(方46x42m)@桜井倉橋
  雀塚@十市郡倉橋
  藤ノ木古墳@斑鳩法隆寺

桜井倉橋地区の伝承には相当な混乱があるということだろうが、格段というより、普通発生するようなれべるでしかなかろう、というのが太安万侶の考え方であると思われる。
宮地埋葬は穢れを嫌うことから有りえないが、宮の後背地に埋葬したことが知られていたのだろう。常識的には、科長への改葬となるところ、横槍が入りそれがオジャン。
しかし、岡にママという訳にもいかないので、ともあれ改葬したのだろう。
改葬を重視すれば、雀塚を比定地にしたくなるし、おそらく法隆寺にもなんらかの改葬記録があるだろうから、大王レベルの副葬品の藤ノ木古墳が該当するという説に成る筈だ。
それだけのことでは。

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畝傍山御陵について


"村"の御陵とは何を意味するのだろう


下巻末部記載御陵の比定地確実性


三島之藍陵が摂津最大規模ではない理由


個人的贔屓で宝来山古墳を御陵扱いに


佐邪岐皇御陵とは帝王陵墓の意味か


遺志に反し円墳御陵にされたか


山邊之道上陵とは


片丘とは建内宿祢勢力の地か

 ■■■ 御陵 ■■■ 
科長は新時代の
集合墳墓地

河内の坂門原は
お話と見たか

兄弟とその皇位継承者間に
問題ありか

檜垧宮天皇御陵は
継承儀式無しか

形状変更の
合陵は非掲載か

御陵名非掲載
の意味

石寸から王陵の谷への
改葬とは何か

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