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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.21] ■■■
[416]御所の御陵記載があるので流れがわかる
御所[ごせ]は奈良盆地西南部の金剛葛城山東麓の地名で、中央を流れるのが葛城川上流。川は巨勢丘陵側にもう一本 曽我川上流がある。
この地域に2つの御陵が存在している。・・・
葛城室秋津嶋大倭帯日子国押人命(孝安天皇)御所_玉手岡上
  =玉手丘上陵(円丘…ほとんど自然地形)@御所玉手(宮内庁治定)
  ≠室大墓/宮山古墳/@御所室(牟婁)
  ≠掖上鑵子塚古墳@御所柏原
   …非御陵は、武内宿禰墓 or 葛城襲津彦墓に比定することになろう。
葛城_掖上御真津日子訶恵志泥命(孝昭天皇)御所_掖上博多山上
  =掖上博多山上陵/"博多山"(山形)@御所三室(宮内庁治定)
  孝昭天皇神社(丘上より移設)
↓R24

 ←JR和歌山線ごせ駅

↓葛城川

└──────○─ ←たまで駅
└──┐
┼┼┼┼←玉手丘上陵◇6
←掖上博多山上陵◇5
┼┼┼┼←葛城掖上宮◆5
┼┼←今出 池之内
←葛城山
┼┼←小碓命(倭建命)陵
┼┼┼┼┼←国見山
┼┼←宮山古墳=葛城室之秋津嶋宮◆6
─┤∨∨∨∨∨][∨∨∨←大口峠
←巨勢山

←金剛山


この地域には以下のような古墳の存在が知られている。大和国内にもかかわらず、前期の大型古墳は無く、中期と判定される室の大墓が突如造営されている。(この時代の広域集落は南郷遺跡。)地場の大王クラスの墳墓はこれに比べかなり小さい掖上鑵子塚古墳しか見当たらない。巨勢山古墳群は室の大墓より新しいと見られている。
  室大墓/宮山240m▲△🈭
  掖上鑵子塚150m△🈭
  條ウル神100m
  巨勢山[群:700]
  ネコ塚[円]70m…室大墓後円部東端
  みやす塚[円]50m
  水泥[円]
  鴨都波[方]20m
  三室博多山[自然丘]=掖上博多山上陵◇5
  玉手宮山=玉手丘上陵[円丘]◇6
  (楢原遺跡)=交流拠点
  (名柄遺跡)…銅鐸出土

この2御陵の辺りは、天皇も一目置かざるを得ない地である。地図から大雑把に南行で並べると、ここが初代天皇が大和国に入る以前から存在していた神々の地であることが一目瞭然。・・・
  【新庄】
  葛城座火雷神社
  【櫛羅】 <御所駅>
  鴨都波神社     神武天皇神社
  ⊥掖上博多山上陵   ⊥玉手丘上陵
            【池之内】 葛城掖上宮
  【宮戸】
  葛城一言主神社     ⊥小碓命(倭建命)白鳥陵
  【関屋】水分神社
これを眺めれば、この地域の信仰基底はあくまでも葛城山-葛城川で、部族的な最高人格神として一言主が存在しており、それに数々の神々が連なるという体系が存在していそう。天孫系もそのように扱われているということだろうから、ここでの御陵はOne of themで、その後に初代天皇と倭建命も加わり、その祭祀場ということだろう。
大王墓に於ける皇嗣祭祀の行儀とは違っていたので、大型墳造成の意義を感じていなかったのではあるまいか。おそらく、人工物不要の三輪山祭祀と同じ感覚であろう。初代陵墓がはっきりしないのも、その風土に浸かっていたことを意味していると考えるとわかり易かろう。
そこらを、太安万侶は考え抜いていたことがよくわかる。・・・
初代は橿原を基盤としたが、盆地最強勢力の師木の三輪系と婚姻関係を結んだ訳で、次にこの葛城系を取り込んだことになる。そして、その力で北方の平城京化してしまう地域に入り込んだのであろう。そして、三輪山に繋がる山辺の道の石上辺りで武力的に最強であることを誇らかに宣言したことになろう。その時点で、葛城的な体質を脱皮し、御陵の存在こそが国家樹立を意味するとの観念を明確に打ち出したことになろう。

そんなことがわかるのは、この2つの御陵がしっかりと記載されていたからに他ならない。

上記でわかるように、この地に威圧を感じさせる前方後円墳は存在しておらず、唯一目立つのは巨勢山の麓の一基のみ。一言主という天皇以上の威厳を持つ存在の地には前方後円墳は不要だったのであり、御陵も目立たない丘で十分なのであり、国家的威厳を感じさせる存在である必要などない。女系の祭祀族の世界はそのような風土であり、国家といっても持ち回り代表の連合部族以上の統治ができる根拠がない。
天皇の国家として明確にするには、行儀が定まった祭祀を行う必要があるが、葛城時代はそれとはあまりにも遠いことがよくわかる。従って、国家樹立を成し遂げたのは初代という訳ではなく、実質的に10代ということになろう。
皇嗣祭祀を行うための偉大な御陵造成を進めることで、ついに、国家としての一体感を醸成することに成功したのである。

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伊邪河坂上陵の被葬天皇は実在する


倉椅岡上陵比定地混乱に納得


畝傍山御陵について


"村"の御陵とは何を意味するのだろう


下巻末部記載御陵の比定地確実性


三島之藍陵が摂津最大規模ではない理由


個人的贔屓で宝来山古墳を御陵扱いに


佐邪岐皇御陵とは帝王陵墓の意味か


遺志に反し円墳御陵にされたか


山邊之道上陵とは


片丘とは建内宿祢勢力の地か

 ■■■ 御陵 ■■■ 
科長は新時代の
集合墳墓地

河内の坂門原は
お話と見たか

兄弟とその皇位継承者間に
問題ありか

檜垧宮天皇御陵は
継承儀式無しか

形状変更の
合陵は非掲載か

御陵名非掲載
の意味

石寸から王陵の谷への
改葬とは何か

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