→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.22] ■■■ [417]剣池御陵は"初国知らしし"天皇改造かも ⑧軽之堺原宮大倭根子日子国玖琉命(孝元天皇)橿原_剣池之中岡上陵 宮跡や御陵に確たる物証があるようには思えないが、宮と御陵がセットになった伝承であり、両者共に樫原のすぐ南の交通の要衝 軽地区にある点で、いかにも感が漂う。 それに、御陵が大王威信を示すまでに至っていないことが、かえってそれらしさを醸し出している。国家的に祭祀行儀を統一したのは、あくまでも"初国知らしし"⑩代。その時点こそ中華帝国的な観点での国家樹立に当たると、太安万侶は言い切っているのだから。 (宮内庁治定)剣池嶋上陵@石川池=中山塚1号墳(前方後円)+2・3号墳(円) …周濠不要の設計である。⑩代が2墳を追加し巨大化させたように思える。実態は不明だが、元の御陵(前方後円墳ではないかも。)に手を付けずに一基の大型前方後円墳に映るように造成させたのと違うか。 ただ、素人からすれば、出土品に、⑧大倭根子日子国玖琉命の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていた点で、この天皇も実在していたに違いないと考えてしまうわけである。皇嗣は第三皇子なのだから。 一官僚に過ぎない太安万侶が、思い付きで御陵名を記載することはおよそ考えにくい。中華帝国であれば、即刻、宗族抹消処分になる大罪であるからだ。 つまり、「古事記」時点で、記載されている御陵は存続祭祀が挙行されていたか、それらしい伝承が知られていた墳丘らしき丘が存在していたと考えるのが自然ということ。 <欠史八代>は御陵の記載がある以上、そのような治世が存在したことを反映していると考えるべきだろう。 太安万侶的感覚からすると、"大倭根子日子"天皇とはインターナショナルに倭国を打ち出したことを示す尊称と違うか。「古事記」は東シナ海の政治状況に全くふれていないが、中華帝国となんらかの外交関係があったことを示唆しているようにも思える。 ここらの名前は意味深。 皇嗣⑨の皇后は父の妃であり、その次の代⑩の皇后は⑧代長子の娘と、近親婚の兄妹的姫彦婚姻の祭政一体型統治が行われているかのように映る系譜になっている。箸墓古墳が天皇陵ではないとすれば、それは⑩の命による、女王あるいは皇后を祭っていると考えるべきかもしれない。 箸墓古墳は最初期の大型前方後円墳だが、天皇陵でないなら、これらの女王や皇后の御陵と考えるしかなく、「箸墓古墳=卑弥呼墓」説には一理ある。 この古墳は、全国の古い前方後円墳のプロトタイプでもあるから"初国知らしし"⑩代天皇の命で造営されたに違いなく、そうすると中華帝国標準祭祀とは対立的な鬼道祭祀の象徴ということになるからだ。 ・・・一官僚としては書けないことだらけだったに違いないが、太安万侶は、なんとかして実情を伝えようと、<欠史八代>を練りに練って書き下したとみるべきではなかろうか。 畝傍山⇒ 葛城山⇒ 馬見丘陵⇒ プロトタイプ ┼↓曽我川 ┼│┼┼┼↓近鉄 ┼│┼┼┼│↓R169 ┼│┼▲┼○│←畝傍山 うねびごりょうまえ駅 ┼│┼┼⛩││←橿原神宮 ┼│┼┼■││←深田池 ──○──○│←にしぐち駅 かしわらじんぐうまえ駅 ┼│┼┼┼││┼┼┼┼■⊥←剣池 剣池之中岡上◇8☚ ┼│┼┼┼││┼┼∴←軽島明宮◆15 ┼│┼┼┼││┼┼卍←法綸寺(軽寺) ┼├──┐││┼∴←(大軽)丸山古墳◇29=軽之境岡宮◆4 ┼┼┼⛩│││←牟佐坐神社=軽之堺原宮◆8 ┼┼┼┼│○│←おかでら駅 ┼┼┼┼│││ ┼┼┼┼↑檜前川 <軽境原宮跡伝承地>牟佐坐神社@見瀬[生雷神⇒現在の御祭神:高皇産霊命+孝元天皇] (大軽)丸山古墳=見瀬丸山古墳/武遮(牟佐/身狭/身射)墓 ⑦大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇) └┬△細比売命(十市県主の祖 大目の娘) │⑧大倭根子日子国玖琉命 (孝元天皇) ││┼┼┼(記_載)橿原 剣池之中岡上陵 ││┼┼┼ ↑剣池=石川池としているので、周濠無しであろうか。 ││┼┼┼(非記載)劔池嶋上陵@橿原菖蒲(宮内庁治定) ││┼┼┼ ↑(大改造の前方後円+円2基) │└┬△内色許売命(穂積臣ら祖 内色許男命の妹) │┼├〇大毘古命 │┼│ ↑「・・・乎獲居臣 上祖 名 │┼│ @稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣 │┼├〇少名日子建猪心命 │┼└⑨若倭根子日子大毘毘命(開化天皇) │┼┼└┬△伊迦色許売命(継母/父の妃) │┼┼┼├⑩御真木入日子印恵命(崇神天皇) │┼┼┼┼└┬△御真津比売命(大毘古命の息女) │┼┼┼┼┼├⑪伊玖米入日子伊沙知命(垂仁天皇) │ └┬△意富夜麻登玖邇阿礼比売命/蠅伊呂泥 ┼├┬┬┐ ┼△夜麻登登母母曽毘売命 ┼┼┼│┼(非記載)箸墓古墳/大市墓≒倭迹迹日百襲姫命墓(宮内庁治定) ┼┼┼○比古伊佐勢理毘古命/大吉備津日子命(祖:吉備上道臣) ┼┼┼┼┼(非記載)中山茶臼山古墳@吉備津 (宮内庁治定) -------------------- 御所の御陵記載があるので流れがわかる 伊邪河坂上陵の被葬天皇は実在する 倉椅岡上陵比定地混乱に納得 畝傍山御陵について "村"の御陵とは何を意味するのだろう 下巻末部記載御陵の比定地確実性 三島之藍陵が摂津最大規模ではない理由 個人的贔屓で宝来山古墳を御陵扱いに 佐邪岐皇御陵とは帝王陵墓の意味か 遺志に反し円墳御陵にされたか 山邊之道上陵とは 片丘とは建内宿祢勢力の地か ■■■ 御陵 ■■■ 科長は新時代の 集合墳墓地 河内の坂門原は お話と見たか 兄弟とその皇位継承者間に 問題ありか 檜垧宮天皇御陵は 継承儀式無しか 形状変更の 合陵は非掲載か 御陵名非掲載 の意味 石寸から王陵の谷への 改葬とは何か ■■■ 墓制 ■■■ 📖皇位継承争いの刀 📖頭椎之大刀 📖紐小刀 📖草那藝劒 📖生大刀 📖都牟刈之大刀 📖伊都之尾羽張 📖縄文から弥生へ 📖多遲摩毛理 📖矛を考える 📖副葬品"矛" 📖前方後円墳の消滅 📖月神 📖地蟲 v.s. 鳥 📖他界について 📖葦舟葬 📖"半島の影響"考 📖異界の力 📖火葬 📖ドルメン 📖渚に建てられた産小屋 📖石信仰 📖"勾玉" 📖密集集団墓時代 📖"土偶" 📖磨製"旧"石器時代 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |